箴言では、繰り返し正義と慈悲の大切さが語られる。
それでは、正義と慈悲の人は、いったい何を得るのだろうか。
時折そんなことを考えることがある。
そのことばズバリ書いてある一節があった。
Whoever pursues righteousness and love
finds life, prosperity and honor.
恵みと慈しみを追い求める人は
命と恵みと名誉を得る。
(箴言 第二十一章第二十一節 新共同訳)
正義と慈悲を追求する人は、
命を、義を、栄光を見出す。
(箴言 第二十一章第二十一節 自分訳)
ロデフ・ツェダカー・ヴァハーセッド・イムツァー・ハイーム・ツェダカー・ヴェハヴォッド
正義と慈悲を求めて生きていく人は、命と義と栄誉を得る。
一見当たり前のことのように思える。
しかし、この言葉は深いと思う。
というのは、正義と慈悲の人は、別にお金や地位を得るとは全く書いていないからだ。
正義と慈悲を実践したからといって、この世の世俗的な価値観や尺度では、必ずしも成功者の類に入るとは限らない。
中には、成功する人もいるかもしれないが、田中正造のように辛酸をなめ尽くす人もいるだろう。
しかし、箴言は、正義と慈悲の人は、命と義と栄誉は得ると断言する。
命とは、生命が魂から湧き出でて、生き生きとした人生が恵まれるということだと思う。
つまり、生き甲斐や心の喜びや納得・手ごたえのある人生ということだろう。
仮に地位や肩書や権力や財産があっても、生命が枯れ切っていれば何の意味もないかもしれない。
世俗的な尺度のことには恵まれていても、本人はいたって退屈で、むなしく、疲れ果てて生きていくだけの人もいるだろう。
一方、命を見出した人は、いかなる境遇であろうと、命に満ちているのだと思う。
また、正義と慈悲を求めて生きる人は、義が与えられるとはどういうことだろう。
これはつまり、神から義とされるということだろう。
この場合の義(ツェダカー)というのは、古代イスラエルにおいてはあくまで神との関係において正しいということであり、人の尺度とはまた違うのだと思う。
神との関係において正しいこと、真理との関係において正しいこと。
それがなければ、本当のところで人は安心立命することができないのかもしれない。
死ぬ直前や死に際して、そのことはしばしば如実に現れるのかもしれない。
また、この一節で言う栄光・名誉というのは、おそらくは人から与えられるものというより、神から与えられるものなのだと思う。
神に嘉せられ、神に褒められるということだろう。
仏教・浄土真宗においては、仏の願いを聞いて念仏を称えて生きる人は、人に誉められるかどうかというより、諸仏が証誠し、称讃し、囲遶して守ってくださるということを説く。
本当に大切なことは、人のあてにもならぬ名声を求めるのではなく、お天道様がうなずいてくれる、あるいは神仏がうなずいてくれる、そういった生き方をしていくことなのだと思う。
一見シンプルな一節のようで、この箴言の一節は、金や名声や権力ではなく、正義と慈悲を求めることによって命と義と栄光という本当に大切なものを見出しなさい、と教えてくれる、とても大切な一節だと味わわれる。