ユダヤ教のラビの御話を聞いて

今日は、ジョナサン・マゴネットさんというユダヤ教のラビの方の講演を聴きに行ってきた。
ユダヤ教のラビの方の話を聴くのははじめてだったので、貴重な機会だった。


聖書の創世記の二章・三章の、いわゆるアダムとイヴのエデンの園失楽園の箇所について。


非常に面白い内容だった。
ユダヤ教の伝統の深さは、本当にすごい。


ユダヤ教の中にもいろんな解釈がこの箇所にはあるが、一つの解釈としては、別に原罪や失楽園などということではなく、神はアダムやイヴが自ら疑問を持ち、問いを持って、無力な裸の状態から子どもが反抗期を経て巣立っていき大人になるようなことをもともと望み、予測していたという解釈もあるそうである。
また、アダムへの神の呪いは、アダムが死んでから生れた最初の人間はノアになるということが各登場人物の年齢計算より確定でき、したがってノアにおける記述から、アダムへの呪いはアダム一代で終っているという解釈もあるそうである。


質疑応答の時間、私も二つ質問をした。


ひとつは、エデンの園にある「命の木」とは何なのか、と質問してみた。


一般的な解釈では、それを食べると永遠の命を得るという樹の実であり、そのような願望があって、そこで生まれた物語だが、現実には人間は七十年や八十年の限られた命であって、アダムたちも実際に限られた寿命だった。
箴言の第三章十八節には、知恵をとらえるものは命の木を得る、という意味のことが書かれている。
ここにおける知恵は、神の啓示であり、律法のことだとユダヤ教の伝統では解釈している。
この箴言の一節を、その直前の知恵は平安をもたらすという十七節とともに歌にして歌いながら、シナゴーグで律法の巻物を箱から取りだすことになっている。
したがって、この限られた命の中において律法を学び神の啓示を得ながら生きていくことが、この限りある命において永遠の命に触れていくということであり、命の木とはそのような意味だと受けとめられる、という答えだった。
なるほどーっと思った。


二つ目の質問は、“AYEKKA”「どこにいるのか?」という質問を、善悪の木の実を食べた後に神がアダムに質問したが、この箇所をどのように解釈するかで四つの解釈がユダヤ教の伝統の中にはあり、怒って探しているという解釈もあれば、そうではなく、自分の人生の座標軸の中にどこにいるのか?と優しく問い、相手の考えを促すこと、あるいは家に入る時にノックするように、本当はどこにいるのかはもちろんわかっているけれど、あいさつをし、対話を始めたいという意志の現れ、ということを聞いたが、この四番目の解釈はユダヤ教の中では正統的な解釈なのか?ということを質問した。


すると、正統的な解釈とは思わない、しかし四つある解釈のうちの一つであり、ユダヤ教の場合、歴代のラビがいろんな、どうしてこんなことを考えるのだろう、というぐらいいろんな面白い解釈をさまざまな聖書の一文一文についてなしている。
それらの解釈のどれかに限定するということもしない。
さまざまな解釈やイメージがあり、神をどのようなイメージによってとらえるかで、どの解釈を選択するかが異なってくる。
大切なのは、数多ある解釈やイメージのどれを選択するかということであり、限定することではない。
自分がいかなるイメージを神について持ち、どれが一番自分にとってぴったりくるか、それによって解釈を選んでいくということが、ユダヤ教のスタンスである。
という答えで、非常に驚くほど自由で多様性があり寛大な発想だと感銘を受けた。


このマゴネットさんは、大学の医学部の卒業間際に、たまたまあるラビの話を聴いて、医師の道をやめてラビになることを志して、ユダヤ教を学んでラビになったという。
その経歴もすごいが、それほどのことを人にさせる力と貴重な叡智がユダヤ教にあるというのは、たしかに片鱗を垣間見ただけでもわかるような気がした。


ジュリアス・レスターが、キリスト教でもイスラム教でもなくユダヤ教徒になったというのも、なんとなくわかるような気がした。


ユダヤ教というのは、私たちにはなじみがうすい宗教だけれど、本当にすごいもんだと思った。



(追記)

あと、非常に印象的だったのは、”ezer k'negdo”というヘブライ語の言葉だった。
これは日本語訳だと「ふさわしい助け手」と翻訳されているが、negdoは顔と顔を向け合っている相手、といった意味だそうで、顔と顔を向け合っているちょうど良い助け手・同伴者、といった意味だそうだ。
アダムにとってのイヴはこうだった、ということで、男女というのはこのように適切な距離と対等で同じような状態あるということが最高の伴侶だという理想をあらわしている言葉だそうである。
創世記を和訳で読んでいると、私の場合さほど気にもとめずに読み飛ばしていた箇所だけれど、ヘブライ語の原語を辿ると、本当に一語一語深い意味があるものだなぁと感心。
私も自分のezer k'negdoといつか所帯を持ちたいものである。