- 作者: 遠藤周作
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1993/06/04
- メディア: ハードカバー
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遠藤周作の『深い河』を再読した。
以前、読んだのは十九か二十歳の頃だった。
その時も感動したが、細かい筋はほとんど忘れていた。
感動したことだけは覚えているけれど、当時はまだよくわかってないことがほとんどだったと思う。
あれから十数年経って読み返して、今回は本当に深々とした感動を心の奥底から覚えた。
これほどの作品は、おそらく日本の文学史上にもめったにないと思う。
十数年前読んだ時は、心のどこかに残りながらも、数多ある小説の一つぐらいにしか受けとめていなかった。
しかし、今回読んで本当に肺腑に響き、特別な一冊になった。
いくつかのことが、以前読んだ時とは、感じ方が違った。
ひとつは、十数年前は、親戚の葬式にはその前にも行ったことがあっても、自分のかけがえのない肉親の死には当時はまだ出会ったことがなかった。
その後、かけがえのない家族の死が、私の人生にもあった。
それゆえ、この作品の登場人物たちの、どうしようもない呻きや嘆きが、よくわかるようになった。
これは、必ずしも人間の年齢には関係なく、若くてもそのような目に遭う人もいれば、私よりずっと年長者でもなかなか出遇わぬ場合もあるし、同じ肉親の死といっても年齢の順番のものと自分より年若い者に先立たれるものとではつらさがまた異なると思う。
ただ、いずれにしろ、人は遅かれ早かれ、死というものに向き合わねばならない。
そのことは、つらく悲しく、嘆きや呻きをともなうもので、他人には多かれ少なかれわからぬものである。
こればかりは言葉にならないもので、言葉だけでは伝わらないものなのだろう。
だから、以前、言葉だけでこの本を読んだ時は、半分もわからなかったのだと思う。
しかし、その呻きや嘆きを通してのみ、この小説で言うところの「たまねぎ(愛)」や「人間の河」、つまり生と死をすべて包み、愛の河として流れていく、深い河に出遇うことができるのだと思う。
ふたつめは、昔読んだ時は、主人公の一人の美津子の思いや人生は、自分にとっては全く無関係な他人事だった。
しかし、今回読んでいて、若干少しだけ、美津子の離婚のくだりだけは、男女を逆転してわかる部分があった。
美津子は、仕事にも熱心でまじめで実際的で誠実な男性と結婚するのだが、その男性とどうしてもしっくりこなくて、結局離婚する。
私はまだ結婚したことはないのだけれど、以前結婚を前提にしばらく付き合っていた人と別れたことがある。
男女は逆なのだが、その人のことをそのくだりを読みながら、思い出した。
その人も、全てにおいてよくできた、実際的で、非の打ちどころのない人だった。
しかし、美津子が夫に対して、どうにもならぬ息が詰まるような思いを感じる描写を読んでいて、はっきりと言葉として表現できなかったし、意識していなかったけれど、しばしば同じことを感じていたことを思い出した。
世の中には、たぶん、おおまかに分けると二種類の人がいる。
極めて実際的で現実的で、生活において諸事万端怠りなく生きて、それ以外のことには興味もないし、生活の範囲で楽しく過ごせる人。
それとは別種類の、生活の奥にある何か言葉にはならない人生や深い河のようなものを求めてしまう人。
どちらが良い悪いということではなく、そういうものなのだと思う。
前者の人間には、宗教的な関心というのは理解しがたいものだし、後者の人間には宗教はなくてならぬものなのだと思う。
「深い河」の中に何度か言及される、「テレーズ・デスケルウ」という小説もいつか読みたいと思った。
みっつめは、以前は、主人公の大津が、神はキリスト教以外のさまざまな宗教にかくれた顔で現れている、と言いつつも、イエスに付き従う道を歩むことが、わかるようでわからなかった。
この小説の中で、他の人物が大津に質問するように、それでは他の宗教でもいいではないか?という疑問や、別に慈悲や転生を語るならばキリスト教でなくてもいい、ない方がいい、という疑問があった。
『深い河』がガンジス川を通してイエスを語ることに、必然的な結びつきがあるのかという疑問が以前はあった。
しかし、今は、よくわかる。
大津と同じように、私もヨーロッパのキリスト教は別に信じないけれど、イエス・キリストその人自身からは、離れることができないし、離れようとは思わない。
「おいで、私はお前と同じように捨てられた。だから私だけは決して、お前を棄てない」
と大津にキリストが心の中で語りかける箇所は、以前読んだ時は記憶になかったのだけれど、今回読み直していてこの言葉は私の中で特別なものとなった。
それは、はっきり言葉にはならなかったけれど、同じことが、いつしか私も聞こえるようになったからである。
ガンジス河はヒンズー教徒のためだけのものではなく、全ての人に開かれている、という意味のことが作中に語られる。
それはイエスとキリスト教についても同じことが言えるのだと思う。
何週間か前、夢の中にガンジス河が見えて、「神の川だ」と思っている夢を見た。
ちょうど聖書ばかり読んでいる頃だった。
不思議なものだが、そうしたこともあって、この小説を読み直した。
以前は理屈ではよくわからなかったそのことが、今はとてもよくわかる気がする。
よっつめは、単純に知識が増えて、以前読んだ時はよくわかっていなかったことがよくわかるようになった箇所が何箇所かあった。
シャーリー・マクレーンの「アウト・オン・ア・リム」という輪廻転生について書かれた本も、この小説の中で言及されるのだが、当時は読んだこともなかったし、この本の中に登場していたことも今回読み直すまで全然記憶になかった。
その後、肉親の死の後にいろんな本を読み漁る中で、この本も読んだことがあった。
ただそれだけのことで、この本がそれほど深い本かどうかは疑問な気がするが、全く忘れていた当時のさまざまな求道や膨大な読書や、いろんな不思議な人々に出会ったことの思い出を、この小説を読み返しこの本が言及される箇所で思い出した。
また、この小説の中で、阿弥陀経の一節が出てくる箇所がある。
十数年前読んだ時には、ぜんぜん阿弥陀経もよく知らなかったが、今では全文暗記しているし、今までに何百回読誦したかわからない。
阿弥陀経もまた、深い呻きや歎きの中から多くの人が唱え、そしてそこにさす光となってきたものなのだと思う。
また、この小説の冒頭の見開きには、
「深い河、神よ、わたしは河を渡って、
集いの地に行きたい
黒人霊歌」
と書かれてあり、十数年前も何か強い印象を受けたけれど、当時はその歌をまだ知らなかった。
その後、この黒人霊歌、つまり”Deep River”は、マリアン・アンダーソンが歌う古い録音のものをyoutubeで見つけて聴いて、とても感動し、何回聞いたかわからない。
http://www.youtube.com/watch?v=C-PdDQn9rVM
この歌の背景にある黒人奴隷の歴史も、十数年前は何もほとんど知らなかったが、その後、たぶん百冊近くはいろんな本を読んだ。
それゆえ、かつて読んだ時とは比べものにならないほど、この一節も、このタイトルも、そこにこめた作者の思いや響きも、よくわかるようになった。
日々、無駄に生きているような気がする時もあるし、何をしているのかわからなくなる時もあるけれど、年をとり、月日を重ねていくと、かつては見えなかったものやわからなかったことが、いつしかわかるようになることがある。
本当に素晴らしい文学作品を、十数年ぐらい時を経てから読み直すと、それがわかることが、何よりもありがたいことの一つなのだと思う。
また今度は、五、六十代になった時に、そのまたさらに先の八十、九十代になった時に、できれば丹念に読み直したいものだ。