遠藤周作 「わたしが・棄てた・女」


遠藤周作の『私が棄てた女』は、大学時代の友人が以前勧めてくれたことがあった。

とはいえ、へえ〜、と聞き流して、全然今に至るまで読んだこともなかった。

たぶん、私がこの小説をなかなか読まなかったのは、タイトルと、漠然と知っているあらすじから、いろいろと自分にとってのよく似た過去を思い出させられるだろうとなんとなく思っていたからだと思う。

最近、別の方からも勧められ、遠藤周作の他の作品を最近読んでいたこともあり、ふと読み始めてみた。

案の定、読みながら、なんともにがい思いをしながら、前半の方は読まざるを得なかった。

三十代半ばになれば、男性も女性も、いくばくかは、それまでの人生の中で自分がふったこともふられたこともあるだろう。
私も、両方あった。

そして、若くて、まだ何にもわかっていなかった時に、この主人公と、いくばくか似たようなことがあった。
愚かなことだったと思う。

その後、十年以上の時が経ち、その間に、自分も同様にふられたことや棄てられたことがあったり、あれこれと人生の経験を積む中で、当時の自分の愚かさと身勝手さが、少しずつわからされたような気がする。
そして、それが距離を置いてわかるようになった時に、随分遅ればせながら、この小説を読んだのだと思う。
もっと早くに読んでいれば、本当は良かったのかもしれないが、人は随分回り道して、やっとわかることもあるのだろう。

人は、何かしら人生のある瞬間に関わった人は、必ず自分の人生に何らかの跡や影響を与えていくのだと思う。
そのことは、この作品の中で、他にないほど、心に迫る、深い響きで描かれている。

そして、ずっと後になって、不思議と思い出され、稀有なものだったという気がする優しさというものもある。

この作品が、単なる感傷や道徳ものと異なり、深く胸を打つのは、この作品の底に、遠藤周作ならでは、イエス・キリストというテーマが流れているからだと思う。

「責任なんかより、もっと大切なことがあるよ。
この人生で必要なのはお前の悲しみを他人の悲しみに結び合わすことなのだ。そして私の十字架はそのためにある。」
(106頁)

不覚にも、私はこの件のところで、涙を止めることができなかった。

そして、以下の言葉も、深く心にしみるものだった。

「しかし、ぼくは知らなかったのだ。
ぼくたちの人生では、他人にたいするどんな行為でも、太陽の下で氷が溶けるように、消えるのではないことを。
ぼくたちがその相手から遠ざかり、全く思いださないようになっても、ぼくらの行為は、心のふかい奥底に痕跡をのこさずには消えないことを知らなかったのだ。」
(124頁)

なんとも切ない小説だし、人間というのはどうしようもない、罪深いものだと思う気もするが、主人公の森田みつの優しさは、かけがえのない救いのようなものを感じる。

この世で、結局最後に残るものは、そして最後に勝つものは、優しさなのだと思う。
たとえ、それがどれほどみじめであろうと。
なぜならば、人が本当に心の底で求めているのは、ずっと一緒にいてくれる同伴者であり、本当の愛だから。

それが最初からわかっていれば、どれほど人は良いことだろう。

せめても、わかった時から、そのことを大切にする。
そのことを、遠藤周作は伝えたかったのだと思うし、そこに導こうとイエスはずっと働きかけているのだと思う。