- 作者: ジョナサンマゴネット,小林洋一,Jonathan Magonet
- 出版社/メーカー: 新教出版社
- 発売日: 2012/03/01
- メディア: 単行本
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今日、ジョナサン・マゴネット『ラビの聖書解釈 ユダヤ教とキリスト教の対話』を読み終わった。
非常に面白かった。
目からウロコのことがたくさんあった。
著者は、進歩主義ユダヤ教の世界的にも代表的な方で、私も二回ほど講演を聴き、質問をさせていただいたことがあるが、本当にすごい知恵で、甚だ驚嘆した。
それで、この本も読んでみたのだけれど、想像以上に面白かった。
モーゼの十戒について、その内的関連性を説き明かす箇所は、本当に目からウロコだった。
また、何よりも衝撃的だったのは、アブラハムがイサクを神に捧げようとした、創世記の有名な箇所についての解説である。
一般的には、アブラハムは信仰の模範者だとこの箇所をもって後世に受けとめられてきたが、ヘブライ語原文に基づく精緻な解釈により、全く別の解釈がここでは示される。
つまり、アブラハムは神のテストに不合格だった、本当はこのような無体な命令が出された時に、それを拒否して、神との対話を始めることを神は期待していたのに、アブラハムは何も拒否も対話も始めず、ただ従おうとしてしまった、神はアブラハムほどの人でも人間の良心に限界があることを「知った」、という解釈である。
詳細は本書を読んで欲しいが、一つの解釈として、非常に衝撃的だった。
さらに、聖書本文の前後を詳細に考証した結果、長いユダヤ教の伝統では、一般的に少年のようにイメージされがちなこの出来事の時のイサクの年齢を、三十七歳と推定しており、それはとても納得のいく根拠が多数示されていたのだけれど、だいぶこの出来事のイメージが変わるという意味でも衝撃的だった。
ルツ記に関しても、同様の出来事に対して模範的に振る舞うことにより、過去の過ちを「修復する」ものとして、ルツ記がユダヤ教の伝統では解釈されてきたということが、とても面白かった。
第二部に収録されている、キリスト教とユダヤ教の対話についてのシンポジウムの記録も興味深かった。
「宗教間での平和なしに国家間の平和はない。
宗教間の対話なしに宗教間の平和はない。
宗教のよって立つものを研究することなしに宗教間の対話はない。」(キュンク)
「過去において、唯一神信仰の三つの宗教は、お互いの比較の中で自らを定義してきた。
今は、お互いの関係の中で自らを定義することを学ばなければならない。」(マゴネット)
「すべての真正の生き方は出会いであり対話である。」(ブーバー)
「すべての真正な宗教的生き方は危険を冒すものである。」(マゴネット)
という言葉も、心に残った。
さらに、パウロの信仰義認説について、創世記十五章六節の、
「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
と訳される箇所が、ヘブライ語原文だと、五節の子孫繁栄の神の約束について、「アブラハムは神を信じ、そしてそれをみなした、彼に対する、彼の義として」という文章になり、アブラハムの神への信頼についての文章であり、主語を神として義認したという文章は、一つの解釈としては成り立つが、ヘブライ語原文は他の解釈にも開かれている、あくまで主語はアブラハムとして語られているのがヘブライ語原文の当該箇所である、という話も、とても衝撃的だった。
信仰義認説は、一つの解釈としては成り立つが、ヘブライ語原文に即する限り、直接的な根拠は創世記の中に明確にはない、ということになるのかもしれない。
著者は慎重な言い回しで、礼節をもって寛容に答えているが、私には非常に興味深いことだった。
聖書に興味のある方は、ぜひ読んでみると良いのではないかと思った。