クシュナー 「現代のアダムとエバへのメッセージ」

現代のアダムとエバへのメッセージ―家族・男女のきずなの新しいとらえ方

現代のアダムとエバへのメッセージ―家族・男女のきずなの新しいとらえ方


アダムとイブの「失楽園」の物語は、「人間の堕罪物語」ではなくて、実は「人間の出現物語」である。

という、独自の視点からアダムとイブの物語や、その他の旧約の物語を解釈している、とても面白い本だった。

間違いは無価値の象徴ではなく、学びの経験であり、神の愛をより学ぶことにつながる。

神は、人に完全さを求めるのではなく、十分に尽くせば良いと考えている。

不完全さこそ神が立ち入れる傷口。

聖書は本当は、人が自分の誤りと限界を認めた時に、完全には程遠くても、神から拒絶されることはないというメッセージで一貫している。

あなたは完全である必要はない。ただ最善を尽くせば、神はありのままのあなたを受け容れてくださる。

独自の聖書の読みから、こうしたメッセージを著者紡ぎ、発し続ける。

それは、とても考えさせれる、良い内容だった。

著者はユダヤ教なので、「原罪」を誘惑によって遺伝されるようになったものとは受け取らない。
そうではなく、「皆に行きわたる愛は存在しない」という誤った思い込みや嫉妬の感情こそが原罪、あるいは罪の名に値し、それは旧約を注意深く読み解けば、カインから始まると指摘している。

もちろん、ユダヤ教のこの観点とは異なる観点がキリスト教にはあると思うが、一つの解釈としてとても刺激される、面白い解釈だった。

また、一般的にはイブはアダムの「肋骨」からつくられたと訳されている「ツェラ」というヘブライ語は、「側面」という意味があり、おそらくは男女が一つの身体だったところからその側面を切り離したという、プラトンの饗宴と似たようなことを聖書のこの箇所は言っていたのではないかという解釈も興味深かった。

エデンの園が狭くなったから、そしてある程度、成長したから、アダムとイブは知恵の実をとったのであり、神はあらかじめそのことは予測済みで、決して必ずしも悪いことばかりではなかった。
広い世界に出ることも、労働や仕事も、結婚して子どもを産むことも、つらいばかりではなくて、むしろそこに人生があるのではないか。

そういう著者の視点は、一つの視点としては考えさせられる、面白いものだと思う。
聖書は多様な読みができる、本当に豊かなテキストなのだと思う。