道と存在と

箴言はごく当たり前のようだが、あまりにもそれと違う現実ばかりなのを見ているとついつい忘れがちなことを、思い出させてくれる言葉がしばしばある。


以下の言葉は、その中の一つと思う。


The Lord detests the way of the wicked,
but he loves those who pursue righteousness.
(Proverbs 15.9)


悪しき者の道は主に憎まれ、正義を求める者は彼に愛せられる。
箴言 第十五章 第九節 口語訳)


主は逆らう者の道をいとい
従うことを求める人を愛される。
箴言 第十五章 第九節 新共同訳)


主は悪しき者の道を嫌うが、
義を追い求める人を愛する。
箴言 第十五章 第九節 自分訳)


トアヴァット・アドナイ・デレフ・ラシャー・ウメラデフ・ツェダカー・イェエハヴ


ここでポイントなのは、二点あると思う。


一つは、神は「悪しき者」を嫌うのではなく、「悪しき者の道」を嫌うといっているところである。


二つめは、義を追い求める人は、その人そのものを、神は愛すると述べられているところである。


深い言葉である。


浄土真宗においても、すべての人を救うという阿弥陀如来の願いが無量寿経の第十八願で述べられていることを教えの根本とする。
しかし、その十八願は、「唯除五逆誹謗正法」、つまり仏法など自分に無関係と思い、恩をあだで返す生き方をしている人は、救いから除かれると述べている。


聖書における神も、おそらく根源的には、すべての被造物を愛し、すべての人を愛しているのだろう。
「知恵の書」や「ヨナ書」を読んでいると、そしてもちろん福音書を読んでいると、そのことがひしひしと伝わってくる。
しかし、では、悪人をも愛しているかというと、そのとおりで悪人や罪人も愛しているが、しかし悪人や罪人の「道」、つまり間違った生き方そのものは決して愛しているわけではなく、なんとかその道を正したいと思っておられるのだろう。


この機微は、しばしば非常に難しく、表現することが難しい気がするものだが、この箴言の一節は、さらっと簡潔に述べていることにただただ驚嘆させられる。


道は常に慎み正しく生きようと思いつつ、いかなる時も天の慈悲のもとにあることを思えば、人は大過なく、また安心して、生きていくことができるのかもしれない。