知恵を捨てず愛し続けること

箴言を読んでると、「知恵」(ホフマー)は、しばしば擬人化されて、しかも「彼女」と女性として呼ばれている。
特に以下の箇所は、とてもなつかしいような、慕わしいような、心に響く言葉だと思う。


Do not forsake wisdom, and she will protect you;
love her, and she will watch over you.
(Proverbs 4.6)


知恵を捨てるな
彼女はあなたを見守ってくれる。
分別を愛せよ
彼女はあなたを守ってくれる。
箴言 第四章第六節 新共同訳)


知恵を捨てないように。
彼女はあなたを守ってくれる。
知恵を愛しなさい。
彼女はあなたを見守ってくれる。
箴言 第四章第六節 自分訳)


アル・タアズヴェーハ・ヴェティシュメレッカ・エハヴェーハ・ヴェティツェレッカ



古今東西で、知恵は箴言に限らず、よく女性にたとえられるようだ。


古代ギリシャの知恵の神様は女神のアテナだった。
中世イタリアのボエティウスの『哲学の慰め』でも、真理の女神が冒頭から現れる。
ペトラルカの『わが秘密』でもそうだ。


東洋においても、ヒンドゥー教の知恵の女神はサラスヴァティーである。
サラスヴァティーは仏教を経由して日本にも伝わり、弁才天として親しまれている。
また、仏教における知恵の菩薩の文殊菩薩は、「三世の諸仏の母」とも言われ、過去・現在・未来のあらゆる仏や菩薩の母であるという呼称がある。


古今東西で、こうしたイメージが持たれるのは、興味深い一致だと思う。
理由はよくわからないが、おそらくは、知恵を愛する人にとっては、知恵が恋人のように思えるからだろうか。
それとも、聡明な女性はしばしば知恵そのもののように思われ、男性よりも知恵の象徴としてふさわしいとどの時代でも思われたからだろうか。


それにしても、こちらが捨てず、愛するならば、きちんと守り見守ってくれるとは、なんと誠実で良い相手だろうか。
世に多い真心のない不実な女性とは全く違う。
こうしたことを考えれば、まずもって、世の通俗的な女性よりは、知恵を愛した方がよほど良さそうである。


ただし、世の人は往々にして、知恵を捨て、知恵を愛さないようにしばしばなってしまい、自分で墓穴を掘るのかもしれない。
順境の時にはおごりたかぶり、人は往々にして知恵を捨ててしまう。
逆に、逆境の時も、しばしば自暴自棄になったり、絶望して知恵を捨ててしまう。


人が知恵を捨てず、愛し続けていくことは、実はどのような境遇にあっても、結構難しいものかもしれない。


いかなる境涯であろうと、逆境の時であろうと、順境の時であろうと、知恵を捨てず、知恵を愛するのが、人間にとって最も大切なことなのかもしれない。


そのためにはどうすれば良いのだろう。


やはり、繰り返し繰り返し、箴言をはじめとした古典を心で読むことなのだろうと思う。