天を敬うこと

箴言ヘブライ語で聞いていると、「イルアット・アドナイ」という言葉がときどき聞こえてきて、そのたびに背筋が正される気がする。


「イルアット」は「畏れる」、「アドナイ」は「主」で、「主を畏れる」という意味のヘブライ語である。


The fear of the Lord is the beginning of wisdom,
and knowledge of the Holy One is understanding.
(Proverbs 9.10)


「主を畏れることは知恵の初め
聖なる方を知ることは分別の初め。」
箴言 第九章第十節 新共同訳)


「知恵の始まりは、主を畏れること。
尊いものを知ることは、理解の始まり。」
箴言 第九章第十節 自分訳)


テヒラット・ホフマー・イルアット・アドナイ・ヴェダアット・ケドシーム・ビナー


内村鑑三は、「主を畏れる」とは、敬畏することであり、重んずることで、天則と人道とに服従しようとする精神で、天意をして我意を支配せしめんとするの決心だと述べている。
(『内村鑑三聖書注解全集第五巻143頁』


このような態度は、何もイスラエルや西洋だけにあったわけではないと思う。


昔、日田の咸宜園に大学生の頃、一人旅でぶらっと行った時に、解説してくれるおじいさんが、


「広瀬淡窓先生は、「敬天」つまり「天を敬う」ということを教えたんだよ。」


ということを言っていたのを、時折思い出す。


広瀬淡窓は、江戸時代の教育者として有名で、幕末に多くの活躍する人材をその咸宜園から輩出したことでも有名だけれど、以下のような言葉をのこしている。


「人、天を 敬うことを知れば、則ち、善は勉めずして成り、悪は禁ぜずして去る。」


「敬天者は必ず学ぶ。学ぶとは、則ち天を敬うことなり。」


これなどは、期せずして、全く箴言の言葉に一致していると思う。


仏教も、仏・法・僧の三宝を敬う。
立派な僧侶の方々などを見ていると、その敬虔さには胸を打たれるものがある。


たとえば、蓮如上人も、


「同行同侶の目をはぢて冥慮をおそれず。ただ冥見をおそろしく存ずべきことなり。」
(御一代聞書)


と述べている。


これは、仲間の目を気にして、仏のおもんぱかりを畏れない人を戒め、ただ仏の目を畏れるべきだと述べている言葉であり、箴言や広瀬淡窓と一致するものだろう。


人類のいかなる文明や文化の根底にも、この敬虔さ、尊いものを敬うこと、があったのだと思う。


と同時に、このことは、すぐに見失われ、失われがちなものなのかもしれない。


聖典や経典に対する敬虔な態度を忘れたような文明や文化というものは、あまり長続きしないのかもしれない。


人間の根本は、敬天、「イルアット・アドナイ」、仏法僧に帰依する、など言葉や表現はいろいろ違っていても、要はそのような精神が大切なのだと思う。


天網恢恢疎にして漏らさず、お天道様は見ている、ということを忘れると、人間はとめどなく堕落していくと思う。
一方、この一事がしっかりとあれば、要はしっかりと大丈夫だと言えるのではないかと思う。