見ること聞くこと

箴言は、ごく当たり前のようで、それだけに深く考えさせられることがよく述べてある。
たとえば、次の言葉も、一見当たり前のようで、深く考えさせられる。


Ears that hear and eyes that see—
the Lord has made them both.
(Proverbs 20.12)


聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた。
箴言 第二十章 第十二節 新共同訳)


聴く耳と見る目と、
主はその両方を造った。
箴言 第二十章 第十二節 自分訳)


オゼン・ショマアット・ヴェアイン・ロアー・アドナイ・アサー・ガム・シェネーヘム


人間が音や言葉を聴く耳、多くの色や形や文字を見る眼、その両方を神がつくった、という意味だろう。


これは当たり前のようでいて、よく考えてみると、実に不思議なことだ。


うぐいすの鳴く声を聞いて、なぜ人の心は和み、よろこぶのか。


また、さまざまな歌や音楽を聴いた時に、人の心はどうして楽しくなったり、悲しんだりするのか。


桜や梅を見ると、どうして人の心は美しいと感じるのか。


また、どうして絵画や彫刻を見た時に、深く感動することがあるのか。


これらは実に不思議なことだ。


というのは、動物や植物には、ある程度はそのようなこともあるかもしれないが、とても人間と同じレベルにおいてそのようなことは見られないからである。


この地球には、いくつもの美しい風景や絶景がある。
人はわざわざ大変な労力を費やして、飛行機や船や鉄道や車によって遠くまで足を運び、それらの景色を見に行ったり、あるいは写真集や映像を通じてそれらを眺め、心を楽しませる。
そんな生きものは、この地上には、人類だけだろう。


もしこの宇宙に神というものがいるならば、あるいはなんらかの知的な精神というものがあるのであれば、それは人間を通じて、さまざまな観察をして、喜んでいるのだろうか。


アリストテレスをはじめとした、多くの哲学者や宗教家が、この人間の観察や観照の能力や活動を、最も神に近い、あるいは神と同じような性質を有する、神的なものとして考えてきた。


動物にも、もちろん眼や耳はある。
その点では人間と同じで、場合によっては人間よりもはるかにすぐれた聴覚や視力を有する。
しかし、それらは生きるために役立つものとして存在している。


人間の眼や耳は、単に生きるためのものであることを離れて、純粋に自然や人間世界の物事を観察し、観照するためにあるところが、なんとも不思議な、特徴的なことだろう。


これは、やはりこの箴言が述べるように、神からの賜物なのかもしれない。
あるいは、神を格別に信じない人でも、宇宙からの賜物と考えることに格別異論はないだろう。
偶然にしては精巧にできすぎているものである。


問題なのは、せっかく見る眼や聴く耳が備わっているのに、恵まれているのに、人はしばしば見ず、聴かずに人生を送ってしまうことがあることかもしれない。


せっかく春になり美しい花が咲いていても、心が閉ざされていれば、花の美しさは心には映らない。


せっかくすばらしい音楽を聴くことができる機会があっても、聴く気のない人は聴かない。


せっかくすばらしい本があっても、読まなければその目はその文字を追うことはないし、せっかくすばらしい教えを聞く機会があっても、聞く気がなければ、その耳はその言葉に耳を傾けることはない。


せっかく賜物をもらっている場合は、できれば生きている間よく活かし、よきものを見て、よきことを聞いてこそ、人の身に生れて良かったと思えるのかもしれない。


そしてできれば、目と耳を通じて得た良きものを、誰かに伝えたり、あるいはさらに良きものを付け加えて、この世にもたらすのが、生きるということの意味なのかもしれない。