心に納めるということ

箴言の中に、こんな一節があって、考えさせられた。


Do not let them out of your sight,
keep them within your heart;
(Proverbs 4.21)


見失うことなく、心に納めて守れ。
箴言 第四章 第二十一節)


これは、前の文章を受けていて、父の諭し、あるいはソロモンが語る知恵について、見失うことなくしっかり心に入れて守りなさい、という意味の文章である。
そうすれば、その知恵が命となり、健康となると次の節では説かれている。


シンプルな言葉のようで、深く考えさせられる。


読んだり聞いたりしたことを、見失わないこと。
そして、心にしっかり入れて保つこと。


これは実は、結構難しいと思う。


現代のように次々と情報が発信され、流行は移り変わり、早く早くとせかされる時代においては、ともすれば大切なことすら簡単に忘れ去られていく。


本も多読すればするほど、かつて読んだ本のことはともすれば忘れてしまう。


その時は感動しても、ざっとおおまかなことと、その時感動したことだけを覚えているだけで、また次の別のものに飛び移っていってしまう。


それはそれで、必要な場合もあるかもしれないし、必ずしも悪いことだけではないかもしれない。


しかし、何かの知識が知恵に変わるということ、本当に知識が血肉化され、発酵するということのためには、見失わず、しっかり心に納めること、つまり忘れずに繰り返し読み直し、見つめ直し、考えるということが必要なのだと思う。


たとえば、自分のことで言えば、私はかれこれ二十年ぐらい前には一度箴言を読んでいた。
しかし、さっぱり忘れ果てて、わかったような気になっていた。
これほど宝の山のようなすごい本だとは、つい最近まで気付かず、本棚に置きっぱなしだった。
つまり、私においては、せっかく一度か二度は読んでも、箴言は見失われ、心の中に納められていない知識だったのだと思う。


箴言に限らず、何かの歴史や言葉や知識も、見失わずに心に納めてこそ、本当に生きた知識となり知恵となるのだと思う。


見失わないためには、繰り返し注意を向けていくこと。
心に納めるためには、しっかりと思うことが大事なのだろう。


「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」
(マルコによる福音書 第八章第十八節)


ということほど、人間として恥じるべきことはないのかもしれない。
そして、情けないことに、人間とはすぐにこうなってしまう生きものなのだろう。


法然上人もよく似たことを言っていて、長時修と無間修ということを説いている。
どういうことかというと、長い間、間断なく、仏の恩を思い念仏を修める、ということである。
これは言いかえれば、見失うことなく、心に納めて守る、ということだと思う。


長時修・無間修。
見失うことなく、心に納めて守ること。
自分の大切なことに関しては、常にこのことを心がけたいとあらためて考えさせられる一節だった。