門閥制+大衆煽動家政治よりは

アリストテレスの『政治学』には、周知のとおり、六政体の分類がなされている。


つまり、王制・貴族制・国制、と、それぞれの逸脱形態としての、僭主制・寡頭制・民主制、の六つである。


ただし、実際にきちんと『政治学』を読むと、この六つだけではなく、細かくさらにいろんな分類がなされている。


しかも、逸脱形態としての寡頭制と民主制の中に、さらに逸脱した最悪のものがそれぞれにあり、寡頭制の最悪のものは門閥制(公職の世襲制)、民主制の最悪のものは大衆煽動家による政治、とそれぞれ分類されている。


それを読んでいて、今日思ったのだけれど、自民党と維新の会の連立政権が次の選挙で実現した場合(おそらくはそれが実現する可能性が今のところ極めて高い)、


アリストテレス的に言えば、門閥制と大衆煽動家政治の混合というものになるのかもしれない。


ちなみに、アリストテレスは、中間層を非常に重視しており、貧富の格差は政治を混乱させるとして、分厚い中間層が存在してはじめて安定した政治が成り立つと考察している。


その点から言えば、「分厚い中間層の復活」を掲げる野田政権は、アリストテレスの理念に照らしてみると、その点に関しては、わりとまっとうなものを目指していると言えるのかもしれない。


政治というのは、悪さ加減の選択である。
つまり、より悪いものを避けて、比較的ましなものを育み守らなければならないものだ。


なるほど、野田政権は問題も多いかもしれない。
閣僚の任命に関しても、不必要にもたついて紛糾してきた。
原発再稼働についても極めて疑問が多い。
肝心の消費税や社会保障の改革にしても、総論はともかく、各論において、軽減税率をもっと打ち出すべきではないかとも思う。


菅政権が続いていれば、もうちょっと、脱原発の問題にしろ、消費税における軽減税率の問題にしろ、旗幟鮮明であったかもしれない。


だが、野田政権をやたらと叩いて葬り去り、次の選挙で自民と維新の会の連立政権が誕生したとして、はたして野田政権以上に日本が良くなるという保証はあるのだろうか?


むやみやたらな菅降ろしがはたして何か一つでも良いものをもたらしたかも疑問だが、むやみやたらに野田政権を滅ぼしても、はたして何か良いものが次にもたらされるのか甚だ疑問である。


政治は悪さ加減の選択の問題だというのに、その時々の政権をむやみやたらとこき下ろして、より悪い結果を選択し続けるとすれば、実に愚かしいことではないだろうか。


といっても、このようなペシミスティックな見方や、消去法という思考方法は、大衆社会には非常に受けが悪いものなのだろう。


あまり根拠がなくても、とりあえず歯切れがよく、受けがよくて、勇ましいことを言っている人や、何か漠然とやってくれそうな人に、大衆は幻想を抱いて飛びついていくのかもしれない。


しかしながら、漠然とした幻想よりも、つまらない現実というものが、政治というものである。


私には、どう考えても、菅>野田>橋下 と思えるのだけれど、この不等号はメディアや大衆においては全く逆になるのだろう。
だが、現実に起こっていくことは、これからどうなるのだろうか。


野田さんがそれほど良いとはあんまり私も思わないけれど、アリストテレス的に言えば、少なくとも民主制ではあろう。
門閥制と大衆煽動家政治よりは、それでもましなのではなかろうか。