雑感 親鸞和讃 一子地

今日、親鸞聖人の和讃を読んでて、「一子地」、つまり自分の一人子のようにあらゆる衆生を慈しむことについて詠んでいる和讃に考えさせられた。


「平等心をうるときを
一子地となづけたり
一子地は仏性なり
安養にいたりてさとるべし」


現代語訳してみるならば、


「あらゆるいのちへの平等な心を身につけるということは、
あらゆるいのちを自分のたった一人の子どもと同じように慈しむ境地ということです。
あらゆるいのちを自分のたった一人の子どもと同じように平等に慈しむという心が「仏性」です。
この仏性を浄土に往生したら悟ることでしょう。」


といった意味だろうと思う。

凡夫の悲しさ、とても平等にあらゆる人に自分の愛しい存在と同じような慈悲の心を持つことを、私はできない。
そして、それができないことを、日ごろは当たり前と思っていて、何の悲しさも感じずにいる。

そのことを深く見つめたのが親鸞聖人であり、仏教というものだったのだなぁと、今日はあらためてこの和讃に考えさせられた。

それにしても、時折、非常に安易に仏性、あるいは悟りを語っている人がいるが、そういう人がとても「一子地」を達成しているとはどう見ても見えない。

人のことはとやかく言うべきではないのかもしれないが、仏性や悟りということが、「一子地」ということから切り離されて語られる時に、単なる空理空論や自分の足元を忘れた戯論になってしまうのではないかということも、あらためて考えさせられた。

それにしても、この頃、あらためて、親鸞聖人の和讃は面白いなぁと思うようになった。
前は、ただお経や曇鸞大師などの著作を和讃に移しただけでつまらんものだと思っていたが、この頃はとても面白く感じるようになった。
七五調にした時の、日本語の深みや情緒というのは、理屈ではない強さや深みや味わいがあるのだと思う。
和讃こそ、中世の宗教的情操の真髄であり、親鸞聖人はこの和讃も縦横無尽に駆使した人物だったのだと思う。

弁栄上人は法然上人の神髄を選択集等の著作よりも和歌に見たように、親鸞聖人の真骨頂も、案外と和讃なのかもしれないなぁ。