現代語私訳『福翁百話』 第二十五章 「日本の輝きを妨げる一点の曇り」

現代語私訳『福翁百話』 第二十五章 「日本の輝きを妨げる一点の曇り」


明治維新で新しくなった日本は文明国として、あらゆることを西洋から学んでいます。
政治・法律・文学・軍事はもちろん、経済や工業の分野から社会のありかたや人間のコミュニケーションの作法に至るまで、旧来の因習を脱け出して新しい文明の作法を取り入れ、急速に進む進歩発展の様子は、本当に「青は藍より出でて藍よりも青し」のことわざのとおり、かえって西洋などの海外の国々をしのぐ様子があることは本当に嬉しいことです。


「日本の輝きは限りない、万歳!」といった感じで、勇気を持って進み続けますます勤勉や努力を怠らないことは、日本の国民の一般的な気風です。
私もまた元来このような日本の輝きを愛し誇りに思う一人ですので、共に力を尽くしてますます新しい文明国としての日本の名声を名高いものとし、仮にも日本の名誉に関する事柄であればほんのささいなことでも他の人におくれを取ることがないようにありたいと思っております。


しかし、不幸なことに、月の光をかくす雲、あるいは玉に傷とでも言えばいいのでしょうか。
私たちの日本の輝く光を妨げるものがあり、私たち日本人が西洋の人々に対する時にその恥ずかしさはあたかも街中で鞭を打たれるような思いをして仕方がないことがあります。


その妨げとは何でしょうか。


新しい文明国の人間であるはずの日本国民が、今日もなお一夫多妻制の過去の因習を完全にやめることができていないという大きな欠点のことです。


そもそも、男性と女性の関係というものは、人間の世界において最も非公開のプライバシーに属する事柄とされており、その実際の内情を暴露し明らかにするならば、だいたいどこの国でも似たようなところがあるかもしれません。


しかし、私はプライバシーや秘密の内情について言うのではなく、ただ男女関係の外面的な事柄を論じるのみです。


さて、その外面的な事柄を論拠にして東洋と西洋を比較し、日本の習慣や風俗はどうかと問うならば、この質問に答える時にはただ「慚愧」の二文字があるだけです。


昔から、わが国においては一人の妻の他に妾を持つことを禁じる法律がなく、大名や家柄の高い家のようなところでは後を継ぐ子孫をつくるためといって、妾を持つことを必要なことと考えていました。
千数百年来のこの習慣に対し、世の中には誰も疑問を持つものもおらず、大名よりも身分が低い人々においても、家の財産が豊かな人は妾を持つことは乗馬用の馬を持つの同じようなもので、あの家には馬もあるし妾もいると言えば、その家は裕福な家だということを自然と認識するようなものでした。


時代が変わって明治維新の世の中となり、あらゆる物事において古い習慣の弊害を除くということが言われましたが、妾を持つということに関してはみんな黙って誰も何も言うことがなく、旧態依然であるのみか、明治維新の変革によって豪傑気取りの若者たちが得意満面となり、芸者遊びをしながら天下国家を論じるなどと大言壮語して憚ることを知らない状態となっております。


学者や政治家・政論家たちなどの、文明の先導者だと自分自身を自負している人々が、私生活の点では逆に古来の中国風の腐った儒学者たちの習慣を学んで、公然と遊郭で遊んで、さらには金銭によって美女を買い受けて正妻と呼ぶようになった上に、さらに別に家の外や家の中にも妾を連れ込んだり追い出したりを繰り返し、次々と新しい妾に変えていく様子は、犬や猫を飼うよりも安易に次々と変えているありさまです。


上も下も同じようにこうした風習を成して今日に至り、旧来の習慣の弊害はますますひどくなってきています。
官僚も学者も医者も企業家・商売人も、少しでも経済的に余裕が出てきたものは遊郭や風俗業界での遊びを最大の快楽や楽しみとして、いまだかつて恥ずかしいと思う様子がないだけではありません。
かつての江戸幕府の時代のそうした見苦しい遊びも、見苦しいものではありましたが、まだしも人の目を憚り隠れて遊ぶという習慣があり、いわば隠れて見苦しい遊びをしていたのですが、今はあたかも白昼堂々見苦しい行為のしたい放題で、人の目に見られても問題ないかのようです。


ひどい場合には、生きとし生けるものを救う使命があるはずの僧侶が、遊郭や風俗業界の酒に酔っ払い女遊びをする者がいるという話があります。
聞いてただ驚き呆れはてるばかりです。


仮に、ここに一つのおかしな話をつくってこうした事情の真実を説くとするならば、たとえば、最近の流行に敏感な、紳士的な官僚や紳士的な企業人や金持ちたちが、その身にフロックコートを着て頭にはシルクハットを載せ、金時計や宝石の指輪で身を飾り、西洋の言語を話し、西洋の言語の本を読んで理解し、ビジネスや人々との付き合いに多忙である様子は、まぎれもなく文明国の進歩した習慣を持った人物でありますが、このような人物がたまたま西洋からの来客と親しく交際するとしましょう。


しかし、この西洋からの来客は生来真っ正直で遠慮を知らない性格で、よもやま話のついでに突然、


「あなたの奥さんはどんな家の御出身ですか?
あなたから聞かなくても私はすでによく知っています。


当時、あなたは今の奥さんに夢中になって遊郭から買い受ける時にいくらぐらいのお金を投じたのですか?
また、今の家の中に一緒に暮らしている妾や外に囲っている妾は、どちらが新しく、どういう順番で迎え入れたのですか?
新しい方の妾はどこから来て、古い方の妾はどこで得たのですか?


伝え聞く話によれば、遊郭の女性は半分芸者で半分娼婦だということです。
繁盛している吉原の女性はかえって俗っぽいので、新橋や柳橋遊郭の女性が粋で優雅な様子に及ばない、とのことです。
あなたの家に出入りするお妾さんは新橋ですか柳橋ですか?
あるいは遊郭の女性は吉原の活発で無邪気な女性の方が良いと思いますか?」


などと、無作法な質問をされたら、どう答えるのでしょうか?


本当のことをいきなり指摘されて、全然知らないこととも言えず、また大変自分はよく知っておりますとも答えらえず、胃の痛くなる思いをしながら、随分と困ることでしょう。


もちろん、これは単なる想定の笑い話であり、人間同士の普通の付き合いのマナーにおいてはこのように無遠慮なことも無作法なこともなく、表面上は本当に上品なものですが、その上品な人々がお互いに他の場所で噂話をするときには、直接的に日本の風俗の見苦しさを攻撃してその口調はともすれば聞くに堪えないものが多いものです。


ですので、私が西洋などの外国の人々に対する時に街中で鞭を打たれるような思いがすると言ったのは、そのような席上に実際に同席して面と向かって西洋の人々が日本の悪い習慣を誹謗し嘲笑するのを聞いて赤面したわけではありませんが、それらの国々の新聞や出版されている本の中には日本の習慣や風俗を記述しているものもあり、一夫多妻制のことになると苦々しく思って書いてある箇所を見つけて、一般的に西洋の人々がこの事柄に関して日本をこのように見ているのだろうと推測しています。


すでにこちら側の心の奥底にそうした思いがあると、たまたま西洋の人々に相対する時にこのような事柄のタブーに触れられることがあれば、相手方はそれほど大して深い考えがあるわけではないとしても、こちら側の心における衝撃は非常に大きく、自分があたかも日本の名誉や恥辱を代表しているような気持ちで一人で心を悩まし、俗に言う「穴があれば入りたい」気持ちになるのは避けられないことです。


これは、私が長い間、心配し苦しんできたことで、世の中には共感してくれる人も多くいることと思います。


ですので、今の時代の外面上は流行に適応しているような男性たちの不品行は、単にその人本人にとって不利益で恥ずかしいことであるだけにとどまらず、同じ国民である私たちの不利益や恥、いや外国との付き合いやコミュニケーションが頻繁である今日においては、諸外国に対して日本の名誉や恥辱に関わる一大事として見るべきことですので、それらの人々においては自分自身で反省して大いに慎んで欲しいものです。


私はあえてこれらの人々を罵ったり叱り飛ばしたりせず、私的な観点からは、ただ彼ら自身の不幸をあわれみ、その家庭の不行き届きを察すると同時に、公的な観点からは国家のことを考えて、彼らが自分自身で生まれ変わることをアドヴァイスするだけです。


いいえ、アドヴァイスということを通り過ぎて、ひたすら彼らに心を入れ替えるようにお願いしたいと思います。


場合によっては、長い年月の習慣はすでに習い性となっているので、心を入れ替えるのが難しいと言うかもしれません。
その場合は、そのような人にすらも寛容の心を持って、もしも急に変えるのは難しいならば、せめても第一歩としてそのような不品行を隠して、極々秘密にして極々窮屈に行って、少しずつ正しい道に戻るように工夫し、アルコールを断とうとする人が宴会では決して飲まず、飲むならば必ず家で少しだけ飲むようにするのと同じようにして、徐々に長年の習慣を脱していくべきだとアドヴァイスします。


ウズラは夫婦仲の良い鳥ですが、そのウズラにも劣るような、一夫多妻の見苦しさを恥ずかしいと思うか、恥ずかしいと思わないかの違いは大きいものです。


世の中の風潮がその見苦しさを見苦しいものとして排斥するようになれば、習慣の弊害は自然となくなっていくことでしょう。


そして、そうした世の中の風潮が発生してくる源は、社会の中で有力な上流階層の人々の風潮だと言われています。
上流階層の人々が、国家の利益や国民の幸福ということを議論することは随分長いこと行われていますが、国民の品格や習慣の是非についての議論は、はたして国家の利益や国民の幸福と無関係のことなのか、私は聞きたい思いです。