00年代から10年代へ

昨年の今頃、こんな文章を記した。

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「00年代から10年代へ」

 そういえば、今年で2000年代の一ケタ台は終るわけで、来年からは「10年代」ということになる。
 とすると、この今までの十年間は、後世からは「00年代」という風に呼ばれるようになるのだろう。

 この十年、「00年代」は、結局どういう時代だったのだろう。
 90年代は、ひたすら閉塞感の漂う、しかも、オーム真理教事件や阪神大震災などとてつもない事態の起こった時代だったけれど、それに比べれば、00年代はどう評価できるのだろう。

 明るい時代だった、と言えるだろうか。
 それとも、諦めが当たり前になり、やけっぱちになった時代だった、と言えるだろうか。

 00年代の半分の五年間を、日本は小泉さんを首相として過ごした。
 その是非は別にして、良くも悪くも、日本は相互扶助よりも自己責任や自由競争というものを軸とした、シビアな時代や社会にさらに突入していったということなのだろう。
 そして、それがあまりにも軋みを生じたと多くの人が感じたことにより、民主党に政権が変わったのかもしれない。

 是非善悪は置くとして、00年代の日本は、小泉改革にしろ、民主党への政権交代にしろ、90年代にすでに失敗が証明された55年体制からの脱却を、なんとかして図ろうとして試行錯誤した時代だったと言えるかもしれない。

 ただ、どう変えるべきなのか、という議論よりも前に、やけっぱちの変革待望ムードばかりが先行したような気もする。

 10年代の日本がすべきこととは、すでに大きな変革へと突入した日本が、ではどう変えていくのかというところを、小手先や目先の表層的な対応だけでなく、根本からしっかりと考えて、哲学や思想をしっかり持った上で、具体的な計画の策定や実行を行っていくことかもしれない。
21世紀にどういう日本をつくっていくか、あるいはどういう地球をめざしていくのか、というグランド・デザインを、ひとりひとりがしっかり持って、いかに生きるかということが、問われるだろう。

 やけっぱちで、ただ表層的な変革ムードや幻滅・絶望・暴走・空騒ぎを繰り返すのか。
 あるいは、どう変えていくかの思想をしっかり持って生きるのか。

 10年代は、日本人が自滅するか再生するかの問われる、大事な十年となるだろう。

 90年代を「失われた十年」と呼ぶ人、あるいは00年代とあわせて「失われた二十年」と呼ぶ人も往々にしているが、そうならぬように、10年代は胸を張ってそうではなかった後世にいえる時代にすべきではあるまいか。
 後世に恥じない十年に、10年代はしたいものである。
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さて、今はどうだろう。

難しいもので、政権交代への熱も冷めきり、諦めとある種の「現実主義」が世の中の基調となりつつあるのかもしれない。

現実をきちんと見ないで迷走・蹉跌してしまう「理想主義」も困ったものだが、かといって何をしたいかもよくわからずただ現実に流されるだけの「現実主義」も困ったものである。

本当の理想主義は現実にあるべき理想や価値を実現するために最大の努力と合理的計算を行うものであろうし、本当の現実主義とは現実にただ流されるのではなくしっかりと自らのプリンシプルや理念を持った上で現実とタフに格闘するものであろう。
そうであれば、本来は、理想主義と現実主義とはそんなに乖離するものではなく、コインの裏表のようなものなのに、我が国ではこの乖離がずっと甚だしいところに問題があるような気がする。

10年代は、空疎な理想主義でも、空疎な現実主義でもない、本当の理想主義・本当の現実主義を確立する時代であって欲しいものだ。