皇室について

皇室・天皇について語ることは、わが国では残念ながらとても困難を極める。
なぜならば、ステレオタイプな右翼や左翼にとっては、皇室の肯定や否定に対して、ステレオタイプに反発をもたらす問題になるからだ。
その人のあり方やアイデンティティが問われて、わりと赤裸々にされる問題でもある。
しばしば右翼による発砲事件まで巻き起こしかねない皇室についての発言は、日本においては今もって「菊タブー」と言われる問題である。

私は、おそらくは、右翼からも左翼からも、皇室の問題については日和見と言われる程度の意見と思いをしか持たない。
ことさら否定しようとも思わないので、天皇制否定の左翼から見れば日和見だろう。
また、私は仏教徒なので、べつにそこまで心情的に天皇を絶対崇拝する気にもなれないから、現人神として崇拝している右翼から見ればひょっとしたら物足りぬかあるいは不敬ということになるのかもしれない。

ただ、大半の日本の庶民というのは、私程度の感覚の持ち主ではないかと思う。
皇室を無理に廃止しようとは思わないし、ほのぼのといてくれたらいいと思うけれど、そんなに狂信的に崇拝するのもちょっとどうかと思う人が大半と思う。

以前、イギリスのBBCのニュースを見ていて驚いたことがある。
チャールズ皇太子が環境問題について意見を述べたことに対し、コメンテーターが「もし政治について何か意見を述べたいならば王族をやめて政治家に立候補してから述べるべきだ」と言っていたからだ。
日本では、皇族が英王室のようにのびのびと環境問題や政治について自分の意見を述べることはない。
また、仮に述べた場合、おそらくイギリスのように気軽に批判することは許されない空気があると思う。

必ずしもイギリスが万事良いとは限らないのだろうけれど、イギリスのこの自由な空気は、重苦しい菊タブーの支配する日本よりは、なんだかうらやましいもののように私には思えた。

高松宮が生前よくおっしゃっていたそうなのだけれど、他国の王侯は頑丈な城塞の中に住むのに対し、京都御所は低い塀だけ、江戸時代までは庶民と塀越しに帝が語ることもあった、日本の天皇は恐怖によって庶民を支配するのではなく平和に愛される存在だった、とのこと。

建武の新政や明治以後のごく一時期の形態と、ほとんどの歴史を通じての基本的に権力の行使を直接せず文芸や祭祀を役割とした形態と、どちらが皇室にとって常の姿でありあるべき姿と思うかで、おのずと皇室に対する態度も変わってくると思う。

戦後の皇室のあり方は、おおむねそうした旧に復するものだったと思うが、いろんな形で戦前の空気や余波をひきずっている部分は今もってあるようにも思う。
皇室が京都ではなく東京にいるという形自体が、薩長藩閥によってつくられたもので、長い日本の歴史からすれば特異な在り方とも言えるかもしれない。

明治四年に起こった明四事件(二卿事件とも呼ばれる)は、京都の公家の一部や秋田・久留米などの士族を巻き込んだ、とても大きな事件で、東京に移った皇室を再び京都に還御させようとする「陰謀事件」だったそうだが、案外と彼らの方が、長い日本の歴史から見れば正気の愛国者だったかもしれない。
(ちなみに、明四事件の久留米や秋田の士族らは、前年に処刑された雲井龍雄とも気脈を通じていたらしい。)

そういえば、昨年の今頃は、中国副主席との会見問題で皇室の政治利用の問題がかまびすしく議論されていた。
最近は、国会の儀式での不敬発言が取りざたされていた。
皇室に適切な敬意を払うことは私も大事だとは思うが、戦前の統帥権干犯問題などを見ても、皇室がみだりに政治に持ち出されることは、この国では往々にして不幸の始まりだったように思う。
民主党宮内庁自民党のどちらが君側の奸かは置いておくとして、虎の威を借る狐がはびこる世は、庶民や皇室の最も望まないものだと思う。

大多数の庶民は、政治権力が皇室の権威を利用する事態は毛頭望まないだろう。
と同時に、天皇・皇后に対して個人的にほとんどの人が好感情を持っていると思う。
以前、前の政権での外相が、もっと自由に御言葉を皇室に述べて欲しいということを述べていたけれど、もしその発言の主旨が江戸時代のような、あるいは英国風の、もっと自由で平和な皇室と庶民の間柄のある世の中を目指しているとすれば、良いことのようにも思える。

薩長藩閥によってつくられた逸脱的な形の皇室ではなく、本来の皇室の姿に完全に戻るのは、いつのことだろうか。