以前、阿弥陀経のサンスクリット文とその対照和訳を見ていたら、鳩摩羅什による漢訳には載っていない、アニクプシタドゥラ菩薩という菩薩の名前が出ているのにはじめて気づいた。
意味をとって漢字に訳するならば「不捨軛菩薩」(ふしゃやくぼさつ)ということになるらしい。
自分の背負っている荷物・くびき(軛)を放棄しない、という意味を名前に持つ菩薩である。
なるほどーっと、深く考えさせられた。
考えてみれば、歴史上のもろもろの偉人というのも皆、ある意味「不捨軛菩薩」なのかもしれない。
自分なりの義務やしがらみや重荷を背負い、それを全うし、進んで担っていったからこそ、偉人と呼ばれるほどの偉大な生涯もあったのだと思う。
そういえば、徳川家康のこの言葉もまさに「不捨軛」の精神かもしれない。
「人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくがごとし。
急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。
心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基。
怒りは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くる事を知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人を責むるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。」
小さい頃から人質として送られ、長じてからも一向一揆や武田や織田や豊臣に圧迫され、数多の苦難や辛酸を経ながらも、自棄も起こさずに長く生きて、ついに家康が本懐を遂げることができたのは、重荷をいとわずに背負う不捨軛の精神があったればこそと言えるかもしれない。
そういえば、家康も篤信の念仏者で、陣中も常に念仏を称えることを怠らず、晩年は一日六万回の念仏を称えて過ごしたそうである。
家康の先祖の松平親忠が篤信の浄土宗の信者で、在家ではじめて五重相伝を受けた人物だったそうである。
そうした先祖からのお育てもあったのだろう。
家康は若き日に、一向一揆との戦いに敗れて菩提寺の大樹寺に逃げ込み、最後に切腹しようとしたことがあったそうである。
その時、大樹寺の住職の登誉上人が「欣求浄土厭離穢土」の八文字を示して諭して曰く、
「どうせ人はいつか必ず死ぬのだから、今急いで死ぬことはない。
死ぬ気でやればなんでもできる。
今の世、盗賊のような武士ばかりなのだから、一度死んだと思って民百姓を守る菩薩の武士に生まれ変わって生きてみたらどうか。
この戦国の穢土の世を終らせ、浄土をつくろうと志すのが、真の欣求浄土厭離穢土の心であり、今死んでもそなたは死に切れまい。」
と言ったそうである。
その言葉によって家康は忽然と心機一転し、その危機も寺の中まで一向勢が攻め込んでこなかったことによりなんとか切り抜け、その後その志に生きたそうである。
さらに、ある時、家康が寝所で寝ようと思って一度床についたところ、普段必ず日課にしてきた仏壇の前での念仏を、その日はまだしていなかったので、気になって起きて仏間に行ったそうである。
すると、すぐに寝所が騒がしくなり、日ごろかわいがっていた小姓のひとりが自分の寝所に斬り込み刀を立てたところを取り押さえられていたとのこと。
武田から送られた刺客だったそうである。
家臣たちが憤激してとりおさえた刺客を処刑しようとしていると、家康はそれを止めて、
「この者を殺しても仕方ないし、武田にとっては忠臣であろう。
放って武田のもとに帰すが良い。
戦場で正々堂々とまためぐりあおうぞ。」
と言って斬らずに放たしめたという。
家臣の一堂は、その姿を見て、この君のためならば命を捨てても惜しくないと改めて感動したとのことである。
家康が、不捨軛の人生をよく全うし、ついに天下人となれたのも、念仏によって支えられ、よく養われた智慧があったからかもしれない。
人は誰でも大なり小なり重荷を背負って、必死にあえぎながら生きているわけだけれど、その中で特に多くの重荷を背負い全うできた人は、何かしら自分なりの支えがあったからなのかもしれない。
人生は重荷を背負いて遠き道をゆくが如し。
不捨軛。
そんな心を大事にした方が、いろんなしがらみや義務から逃げようとしたり放棄して生きるよりは、本当に高貴な充実した人生があるのかもしれない。