印象深かった事件 その3 沖縄米兵少女暴行事件


私が高校生だった時に、とても衝撃的な事件があった。

1995年の9月に起こった、沖縄米兵少女暴行事件である。

米軍の海兵隊三名が、当時十二歳の日本人の小学生を拉致し、集団で強姦した事件だった。

日米地位協定のため、実行犯三人の身柄が当初日本側に引き渡されないという事態が起こり、日米同盟などと言いながら、日本にまともな主権がないことがあの時に浮き彫りになった。

事件の直後、宜野湾市で八万五千人もの人の集まった事件への抗議集会の様子と、たしか私と同い年ぐらいの高校生の人が堂々たるスピーチをしたことも、当時とても印象深かった。

あの事件があるまで、私は恥ずかしながら、日米安保条約にはそんなに深い考えもなかったし、どちらかというと賛成派だった。
未だに東アジアの情勢が安定せず、旧社会主義国の物騒な国々がある中では、日本が軽武装で国の安全を守るためには日米安保体制が大事だろうし、そんなに日米安保は悪いものでもないだろうと思っていた。

しかし、あの事件で、私の考えは大きく変わった。

ちょうどその年は、敗戦から五十年の年にあたり、「ひめゆりの塔」や「きけわだつみのこえ」の映画があって、それらを見た。
また、いろんな本を読んで、いろんなことを考えさせられた。
特に、太田中将の遺言は、その頃胸に刻み、今に至るも決して忘れたことはない。

事件と、沖縄での抗議集会、そして五十年前の沖縄戦で玉砕する直前に太田実中将が本国に最後に打電した、

沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

という遺言を思えば、沖縄の基地を整理縮小し、地位協定を改正し、日米関係を属国ではなく対等の関係にしなければ、沖縄の人々に対し、日本の先祖や子孫に対し、道義が立たぬ。
その思いは、当時痛切に思ったし、今も変わらない。

あれから十五年が経つが、その間に私は、右であろうと左であろうと、この沖縄の問題についてなんらの心の痛みも感じず事態を変えようと志さない人間は全く信用できないし、右であろうと左であろうとこの志を持つ人をこそ信じようと思う、その一念だけは変わってこなかった。
だから、小田実さんのような人もとても尊敬してきたし、西部邁さんのような人もとても尊敬してきた。
今もって私の思想や立場は、必ずしも右か左かと問われればよくわからないしこだわりたくもないが、あの事件の時以来、日本の独立を志す思いだけは決して変わらないし、変えないつもりだ。


1995年のその事件以後にも、決して事件はやむことはなかった。
2007年10月には、岩国で米兵四人による19歳の日本人への集団暴行事件があった。
2008年2月には、沖縄で米兵による女子中学生への強姦事件があった。
しかし、その二つの事件は不起訴になった。
日本の一部のマスコミや世論が、米兵ではなく、被害者に対して悪罵や中傷を繰り返す姿をその時に見て、この国の性根は敗戦以来六十年の間に本当に心底腐ってしまったと、憤慨を通り越して深い悲しみを感じずにはいられなかった。

歴史を見れば、1955年に嘉手納幼女強姦殺人事件があった。
そのあと、何十年も立ち、95年にもあんなに大きな事件があったのに、わが国は何をしてきたのだろう。

長年、わが国の歴代政権がアメリカにひたすら土下座外交を繰り返す中で、日本の魂は腐食し、大和魂はほとんど滅びてしまった。
そう思わずにはいられないことが何度もあった。

これから、まだまだ長い道のりが必要であろうし、日本が真に独立を回復するのには長い長い努力と時間と苦闘が必要かもしれないが、その道のりを志すのが本当の愛国者であり、その道のりを邪魔したり足を引っ張ったり侮蔑する人間が、いかに口で愛国心大和魂や道義を語ろうと、それらの人々の魂は腐食しているものであり、共に語るべきものではないということは、あの事件以来、私の中でははっきりしている。

あの年、いろんな事件があったけれど、この事件は特に忘れられない出来事だったし、忘れてはならぬ未だに解決されていない問題なのだと、あらためて思う。

昨年から今年にかけて、鳩山前政権による迷走と自滅により、沖縄基地問題への取り組み自体に対して、呆然とした思いや無関心や諦めが広がったような気がする。
しかし、そうした事態を乗り越えて、なお現実的に沖縄の痛みに寄り添い少しでも状況を改善しようと努めるのが、本当の意味の愛国心であり、政治であり、道義道徳というものではなかろうか。