印象深かった事件 その2 阪神大震災

私が高校の頃に起こった阪神大震災は、私は直接は体験したわけではないけれど、当時とても印象にのこった出来事だった。

遠い九州に住んでいて、なにも直接の体験はしていないが、震災直後の連日の報道を通して、とても強い印象を受けた。

実際に被災された方やボランティアに赴いた方に比べれば、私は何も語る資格はないのだけれど、あくまで自分自身の当時感じたことの記憶としては、今振り返ると三つのことを考えさせられた。


ひとつめは、無常ということだった。

人生や日常生活というのは突然圧倒的に大きな力で破壊されたり断ち切られることもある、いつ崩壊し死ぬかわからない。

そんな印象と思いを、あの事件以来、どこかでずっと持ってきたような気がする。

もちろん、そんなに強い感覚ではなくて、ほどほどに日常をその後も普通に生きているのだけれど、いかにあくせくと都市をつくり道路をつくり財産を貯えても、一瞬に崩壊することもあるというのは、心のどこかに念頭に置いておいた方が良いような気がする。
だから、身軽に、心に大事なものは貯えた方が良いような気がして、その後、なんとなくそんな感覚でどこかしら生きてきたような気がする。

しょせん、人の力などあまり大したことはなく、圧倒的な天地自然の力に比べれば、実に小さなもの。
そんなことを、あの事件には考えさせられた。


ふたつめは、危機管理について考えさせられた。

震災直後の対応をもっと首相官邸自治体が迅速にできなかったのだろうかということは、当時もよく言われたが、今もそう思う。

村山さんや当時の兵庫の自治体も、おそらくは一生懸命がんばったのだろうから、必ずしも文句ばかりは言えないかもしれない。
しかし、情報収集や初動の不手際は、いたしかたないとはいえ、なんとも残念なことだ。
台湾の921地震の時に、当時の総統の李登輝は即座に現地に飛んで指示を出したという。
9.11テロの時のNY市長のジュリアーニの迅速な対応をした。
それらを考えると、日本の危機管理はどうなのだろうという気が、今もせずにはおれない。

もちろん、今更過去のことを責めても仕方ないとは思うが、情報収集や迅速な対応を工夫することで今後に教訓に生かすことが大事と思う。
だいぶその後教訓の見直しや改善が進んだ部分も多々あるかもしれないし、新潟中越震災の時は、阪神大震災の教訓が幾分かは生かされて首相官邸の対応も速かったと報道で聴いた記憶がある。
とはいえ、今もって十分なのか、当時のことを思い出すと、私ももっと自分で調べて勉強しないといけないと改めて思う。


次に、三つめ、当時とても感銘を受け、印象深かったことは、よく言われることだけれど、阪神大震災の直後から始まった相互扶助やボランティアはとても印象深かった。

多くの報道で聴き、その後もいろんな話を聴いたけれど、震災直後に日本の各地から集まって活動したボランティアの人々は本当に偉かったと思う。
また、当時、共産党や在日や山口組など、いろんな団体が炊き出しや援助に素早く動いたという話も聴いた。

募金の立ち上がりも早かったと思う。
私の高校も、たしか震災の翌日か翌々日には、募金を生徒会で始めて、五十万ぐらい数日で集めて送った記憶がある。
福岡市内の高校ではたしか最も早かった。
義捐金は、各地でかなりの額に登ったと記憶するし、多くの人が実際にボランティアに赴いたのは、私にはとても真似のできない、本当に頭の下がることだった。

さらに、当時聴いてとても感動したのは、外国ではああいう震災があるとすぐに無法地帯になり略奪などがあるのに、阪神大震災ではほとんど略奪がなく、皆炊き出しなどでも列に並び、助け合っていた、という話だ。
海外メディアも驚きをもって伝えたという。

日本は捨てたものじゃない、なんと立派な人たちが多くなんと立派な社会だろうと、当時も思ったし、今もその時のことを思うと思う。


一昨年、政権交代の直後に鳩山さんが施政方針演説で、阪神大震災の時の相互扶助を、日本の「新しい公共」の原点だったと指摘していたけれど、たしかにあの時の出来事は「新しい公共」というものの始まりだったように思う。

中央政府や首長は迅速な危機管理を、庶民は「新しい公共」や相互扶助を。
それがしっかりできれば、いかに世の中は無常なものだとしても、被害を最小限に食い止め、人はまた生きていけるのかもしれない。

無常と危機管理と相互扶助と。
阪神大震災は、当時三つのことを強く印象付けたけれど、たぶんその三つは分かち難く結びついており、どれも日ごろからよく観察し、できる限り見識を養い方途を準備しておくべきことなのだろうと思う。

阪神大震災は、今もとても重要なテーマを投げかけているのだと思う。