今まで生きてきた中で、いくつか強烈な印象の事件というものがあった。
1995年頃の、オーム真理教による地下鉄サリン事件などの一連の事件は、当時高校生だった私にとって、とても印象が強かった。
あの時に、思ったことで、その後の私の人生にかなり影響してきたことがある。
それは、一言でいえば、受験勉強ばかりできても結局何にもならない、ということだった。
オーム真理教には、高学歴の優秀な頭脳の人物が多々いたことは周知のこと。
当時、マスコミでもある種の驚きをこめながら、そうしたことが報道されていた。
結局、彼らはペーパー的な頭は良かったけれど、人間として肝心かなめのことが、どうもからっぽだったし、ずれていたのだと思う。
でも、彼らが受けていたような、いわば受験勉強のマニュアルどおりの点取りばかりの無味乾燥な教育というのは、私も受けてきたものだったと思う。
ちょっとばかり私の方が年代が下だったから巻き込まれなかったけれど、もうちょっと年代が上だったら、精神的な渇きを満たすことを求めてまかりまちがえばああいう道にまきこまれていたかもしれない。
そうこう考えると、無味乾燥な現代の文化や教育、現代日本の宗教音痴、宗教的センスの希薄さや、そうでありながら精神的な意味の希薄さというのは、ひとごとではない、私自身の問題だった。
オーム真理教事件のあと、新宗教への嫌悪感や危険視というのはとても高まったと思う。
私も、そういう気持ちは共有していて、新宗教へはかなり疑ってみるくせがついた。
しかし、宗教全般を危険なものとして、目をつぶり、無視するのは、それはそれでいいのか、かなり疑問だった。
オーム事件の背景に、現代人の精神的な無意味さへの苦悩や渇きがあったとしたら、それは宗教や道徳や精神的な意味への問いの無視によっては解決されず、ああいう誤ったものとは違う、何かもっと本当に人間への道徳や慈悲を確立するもののさらなる探求や真剣な模索が必要ということになると、私は当時も思ったし、今も思う。
自分なりに、オーム事件で受けた印象や衝撃への応答として、あれから十五年間ほど、もろもろの宗教や思想をへめぐってきたのだと、振り返れば思う。
結論としては、法律を犯さない限りはそれぞれの人がそれぞれの段階や嗜好に応じた宗教を自分にあった形で求めればいいとは思うけれど、自分自身の問題としては、上座部仏教と浄土真宗が、人生の糧になるという結論に達した。
あと、もうひとつ、オーム事件を思い出すと、ちょうどその頃に亡くなった丸山真男の言葉を思い出す。
丸山真男がオーム事件に関連して、戦時中の日本はオーム真理教みたいなものだった、と発言していたことだ。
これは、当時もかなり強烈な印象で、今も思い出しても驚かされることもある。
幾分、腹立ちを感じた時期もあったし、うーんと思うこともあった。
でも、今は、ある意味、丸山真男の発言は鋭く当時の事態を指摘したものだと思うし、正鵠を射た部分もあったと思う。
そうこう考えると、オーム事件というのは、決して縁の遠い局部的などうでもいい事件ではなくて、実に甚深なテーマを問いかけている事件だったように思う。
人間というのは、いかに知識や知性ばかり発達しても、かなめの部分が抜けてたり狂っていたら、かほどに狂いやすいものなのだろう。
人間の危うさや、知識や知性がそれだけでは無意味であることを、あの事件を思い出すたびに、考えさせられるし、人間にとって一番大事なのは人間性や道徳や正しい宗教であり、その探求や涵養が不可欠であることを、思わされる。
人としてまともであること、人として立派であること、人とのつながり、そうしたものがきちんとあり、また個人として、社会として、心がけ涵養されていること。
それが、本当は一番大切なことだと思う。