池明観さんの講演を聞いて

今日は、S大で池明観(ジ・ミョンクワン)さんの講演を聞いた。
池さんは、韓国の民主化運動の指導者の一人だった方で、金大中が獄中にある時はずっと支援し、金大中政権の時は相談役をつとめたそうである。
九十歳とはとても思えない、矍鑠とした御姿だった。
敬虔なクリスチャンでもあり、今日は聖書の中のパウロの言葉に触れながら、もう人生最後かもしれないとおっしゃりつつ、とても感銘深い御話をしてくださった。


御話は、概略、以下のようなものだった。


「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ書 八章二十三節)
この楽観論こそが、キリスト教であり、この人生への楽観論を持ち、希望を持って生きることができるのがキリスト者である。

自分の家はとても貧しかったが、母親は非常に苦しい中でもいつもどこか楽観的だった。
それは、この信仰があり、最終的には神様が良くしてくれるだろうと思っていたからだと思う。
自分も、ある人から、どうしてそんなに楽観的なのか?と尋ねられたことがあり、そんなに自分は楽観的かなあと思ったことがあるけれど、政治的に厳しい現実に直面しても、心の中にこの信仰があったからそうだったのだと思う。

自分は、日本の統治時代、小学校の教師をしており、神棚を拝むことも日本語を強制することも、従っていた。
日本統治から解放された時に、そのことをとても恥ずかしく思った。
そして、もう二度と、自分の良心に反したことはしない、自分を偽ることはしない、と誓った。

しかし、共産主義者の支配が来て、それまで尊敬されていた朝鮮の他の指導者たちをすべて否定して、金日成だけを崇拝するように強制された時に、自分はここでは生きていけないと思い、38度線を越えて南に移り住んでいった。
しかし、間もなく朝鮮戦争が始まり、全土が北朝鮮に制圧されていった時に、自分は山に逃れて木の根をかじって生きて行こうと思ったけれど、米軍の介入により、なんとか北朝鮮に制圧されないで生きて行くことができるようになった。
しかし、60年代になると、韓国は軍事政権となり、朴正煕一人に権力が集中し、彼を崇拝するような体制になり、自分はこれは良心に反すると思った。
そして、軍事政権を批判する言論活動をした。
私が毎朝出勤する時に、母いつももうこれが今生の別れかと目に涙を浮かべながら不安な面持ちで送り出してくれた。
しかし、一度も、私がやっていることをやめてくれ、とは言わなかった。
それは、母が、この世だけではなく、死の向こうに神の国があり、永遠の命があるという、キリスト教の視点を持っていたからではないかと思う。
自分は若い時に、田辺元の『懺悔道としての哲学』を読んで感銘を受けて、その中の「習死」という言葉がとても心に響いた。
軍事政権の時代も、いつも死と隣合せに生きて、「習死」や「臨死」の心で生きた。
パウロも第一コリントの十五章三十一節にあるように、迫害の中でそうだったが、そうであればこそ、この世だけではない、永遠のいのちというものに目が開かれ、そしてそこに安心立命して生きていたのだと思う。


さきほど、楽観論がキリスト教であり、キリスト者の特権は楽観的に生きることができることだと述べ、そして死を見つめて生きることを述べたが、三つめに、第二コリントの四章十八節にあるように、見えないものを見つめて、見えるものだけではなく、見えないものをよりどころにし、希望にし、生きて行くことができるのがキリスト教だと思う。
見えるものは過ぎ去っていく。
しかし、見えない者は永遠である。
ここが、キリスト教の人々と、それになじめない人の、ひとつの違いではないかと思う。
見えるものがどれだけ悲惨で絶望的に見えても、見えないものに感謝して、感謝しながら生きていくことができること。
そこがありがたいと思う。


といった御話だった。


その他にも、日韓中のキリスト者は、お互いのキリスト教の歴史などを知って、比較しながら、お互い励まし合いいたわりあうような、そういう比較宗教史みたいなのが、これからもっとあって良いのではないか、という御話をされていた。


質疑応答の時間には、ある方が、「天皇制についてどう思うか?」というかなり直球の質問をしていたが、それに対し、
丸山真男南原繁天皇制についての考え方は違った。人によっていろんな考え方はあると思う。
しかし、日本において天皇制の政治的な力というのは、世界史的な趨勢から見て、どんどん小さくなる方向なのは間違いないのではないか。
あまりこの問題で、少々違うからといって互いを敵とみなすようなことをやめて、歴史の大きな流れを見ながら、違いを尊重していくことが大切と思う。」
という答えをされていて、すごいなぁと舌を巻いた。


私もせっかくの機会なので、
「今の日本の二十代・三十代は、非正規雇用が増えるなどで将来への不安を抱えている人が多い、信仰や歴史への大きな見方ということで、各自が自分で希望を紡ぐしかないと思うが、もし日本および韓国・中国などアジアの二十代・三十代に希望を持つためのアドヴァイスがあるとすれば、教えて欲しい」と質問してみた。


すると、池先生は、
「とても難しい課題で、自分は到底答えることができないし、おそらく、これからは孤独や絶望というものは、世界的にどんどん広がっていって、しかも知的には大きく進歩しているので、理屈や世俗的な事柄で、希望について確信を持たせたり、世俗的な要素や論理で希望を説得させることはできないのではないかと思う。
信仰がなければ、ますます絶望的になるのが、これからの世の中の趨勢だと思う。
私にできるのは、私はこう生きてきた、という自分の人生を示すことができるだけ。
自分はこのように何度も倒れ、また倒れそうになったけれど、信仰によって、このようにまた立ち上がることができた。
その自分の人生を示すことができるだけで、それが証ということではないかと思う。
人生の意味は何か、希望はどこにあるのか、ということを、一般的な形で、理屈で人に確信させるようには言えないけれど、信仰によって自分はこのように立ち上がった、と示すのがキリスト者の証であり、それができるのがキリスト教だと思う。」
という答えを暖かくしてくださり、とても感銘を受けた。


おそらく二度とない、本当に貴重な機会だったと思う。
忘れないようにしたい、貴重な言葉の数々だった。