もう半年ぐらい前になるが、ETV特集「死刑裁判の現場」という番組を見た。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2010/0530.html
四十年前にあった、ある強盗殺人で死刑判決を受け執行された青年について、その時の検事だった方やゆかりの方の記憶のインタビューや、青年の手紙などが紹介され、その時の判決が本当に妥当だったかについて番組ではとりあげてあったのだけれど、見ながら本当に考えさせられた。
犯人の生い立ちから遡った背景事情を、当時どこまできちんと把握できていたか。
また、再犯ではなく、初犯だということをどこまできちんと考慮できていたか。
いろいろと、元検事の人も悔やむところがあったようだった。
また、その元検事の方が実際に、他の死刑囚の死刑の現場に立ち会った時の記憶の話も、生々しく、リアルで、考えさせられるものだった。
元検事の方が番組の最後に、
多くの人が死刑制度に賛成という場合、その死刑制度というのは抽象的な、観念で考えられたもので、本当に個別具体的な死刑というもの、死刑囚の生活や絞首刑というものがどのようなものか、知っているわけではないと思う、もし本当に死刑の是非を考えるならば、深く深く具体的に知った上で、特に裁判員制度のもとでは、死刑制度について考えるべきではないか、
という内容のことを言っていたのには、考えさせられた。
仏教では、その人の心の奥底やその人の裏も表も見抜いて見ることを「覩見」という。
本当は、覩見ができてこそ、人を判断し、裁くこともできるのかもしれない。
しかし、仏ならぬ凡夫である人間は、覩見どころか、本当に表面の、上っ面のことしか、お互いに観察できないのかもしれない。
もし死刑制度を続けるのであれば、事実の認定の真偽はもちろんのことだが、その犯人の背景事情について十分知ろうとすることと、初犯か再犯かどうかについて、慎重に慎重を重ねて知ろうとし、せめても覩見にいくばくか近づこうとすることが必要なのではないかと思った。
凡夫にはそれは不完全にしかできないし、ほとんど無理だと思うのであれば、やはり死刑制度は廃止した方が良いような気がする。
存続か廃止かどちらをとるにしても、死刑制度というものを抽象的に観念的に考えるのではなく、具体的に、絞首刑の現場などについてもリアルに想像した上で、考えていくべきことなのだろうなぁと番組を見ていて考えさせられた。
平安時代、日本では、四百年間死刑が廃止されていたという。
怨霊になることを恐れてのことだったともいうけれど、仏教の考えが人々に浸透し、凡夫は凡夫を裁けない、という深い思いやまなざしもあったのかもしれない。
中世には野蛮な死刑や刑罰が全盛を極めたヨーロッパがいまや死刑廃止で、中世に死刑を廃止していた日本が今も国民の大多数の支持のもと死刑制度が維持されているというのも、いささか疑問な事態ではある。
一概に死刑制度を存続した方がいいか維持した方がいいかは軽々に判断すべきことではないかもしれないが、判決や執行にあたっては慎重に慎重を重ねた方が良いことは確かなように思えた。