悶え神としてのイスラエルの預言者の精神について

聖書を再読していてしみじみ感じるのは、イスラエル預言者たちの魂の熱さと、自分の国への愛情の深さである。


そして、それゆえに、世の中の不条理や不正に憤り、悶える心である。


参照
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20130811/1376183485


むかし、石牟礼道子さんのエッセイを読んでいた時に、むかしの水俣地方では、「悶え神」という神への感じ方があり、神というのは、人の苦しみや生きものたちの苦しみを、ともに苦しみ、悲しみ、悶えるもの、そうであってこそ神だという考え方があったそうである。


その表現であれば、イスラエル預言者たちはまさに、「悶え神」の精神を具現した人々であったと思う。


モーゼもそうだったし、三大預言者もそうだったし、十二小預言者もそうだったし、預言書は伝わらない士師記や列王記に名前と事績のみ伝わる預言者もそうだったと思う。


私が思うに、こういう魂こそ、真実の魂というものではなかろうかと思う。


どうも私がしばしば見かけて、なんとも疑問に思えてならないのは、仏教徒キリスト教徒の、同時代の政治や社会への無関心や無反応ぶりである。
非政治的であることが何か正しいかのように考えているのかもしれないが、その同時代の不条理や不正への無反応や無神経ぶりは、実は彼らの魂には愛や慈悲がないのではないかという気がしてくる。


もちろん、これは全ての人がそうだというわけではない、そうではないすぐれた人が大勢いることも事実である。
しかし、どうも前者のような人々がしばしば多い気がする。


これは別に、政治至上主義を言っているわけではない。
世俗のことよりも、神の義が優先されることを、イスラエル預言者たちも当然認識していた。
政治至上主義とは、世俗の価値を最優先するもので、列王記のアハブ王などの人々のことだろう。
それらは確かに、宗教とは峻別すべきである。
しかしながら、イスラエル預言者たちのような、悶えの精神を失っている宗教というのは、何かが欠如した魂なのではないかと思えてならない。


イエス・キリスト仏陀は、たしかに偉大な宗教家ではあったと思うが、あまりにも長いスパンで、おそらく一千年や一万年ぐらいの単位で世の中のことを考えていたと思うので、凡俗の凡夫の心境や認識とはあまりにも隔たっていたのではないかと思う。
彼らを仰ぐことは、もちろん凡夫にとっても大切なことであるが、凡夫は凡夫として、この今生きている時代や社会にも目を開き、悶えて生きていこそ、まだ悟っていない人間の本分であり本領というものであろう。
悟ってもいない人間が、悟り澄まして悶えもなくしているようなものは、蝉になり損ねた者が、抜け殻のみ持っているようなものではないか。


おそらく、一国の腐敗を正し、健全さを保つためには、悶える魂を持ち、不条理や不正をあくまで糺さんとする、預言者的人物がどれだけいるかによるのだと思う。
モーゼやエリヤやイザヤのような人物が輩出すれば、まだしもこの国も救われるかもしれないが、それらが全く現れないようであれば、ソドムやゴモラや末期のイスラエルユダ王国のようなものになってもいたしかたあるまい。


そして、そのような魂を育てるためには、キリスト教が言うところの旧約聖書、つまりユダヤ教の聖書こそ、何よりもあらためて読まれるべき古典中の古典のようにあらためて感じる。