聖書再読

昨日、ひさしぶりに、キリスト教が言うところの「旧約聖書」、つまりユダヤ教の聖書を全部読み直した。


一度、十五、六歳の頃に一回全部読んだので、これで二度目。
約二十年ぶりになる。
なっかなか大変だったが、久しぶりに全部読むと、感慨もひとしお。


読んだことがある方ならばわかると思うが、聖書は面白い半面、全文読むのはかなり大変である。
律法のことこまかな規定や、歴代誌やエズラ記やネヘミヤ記の延々と続く人名リスト、ヨシュア記の嗣業の地についての延々と続く記述など、きちんと目を通して読んでくのは、かなり根気がいる。


それに、士師記や列王記は、面白いことは面白いのだが、かなり血なまぐさく、現代人の感覚からすると、驚く記述も多い。
預言書も、全部読むのはなかなか骨が折れる。


とはいえ、今回読んでいて、エズラ記とネヘミヤ記は、昔読んだ時はさっぱり記憶になかったのだけれど、今読むと、バビロン捕囚後の神殿と城壁の再建の大変さと健気さが伝わってきて、なんとも胸を打たれた。
特に、帰還の人々の名簿と人数や、城壁修復者の名前が延々と書いてあるところは、それらの人々の一人一人の人生の苦難や思いに思いを馳せると、なんとも胸を打たれるものがある。


イザヤ書も、あらためて、すごい書物だと思う。
独特の、生き生きとした霊が脈打っている。
そうとしか形容ができない


たとえば、


「悪い行いをわたしの目の前から取り除け。
悪を行うことをやめ
善を行うことを学び
裁きをどこまでも実行して
搾取する者を懲らし、
孤児の権利を守り
やもめの訴えを弁護せよ。」
イザヤ書 第一章 十六、十七節より)


などの箇所には、生き生きととした正義感と正義への希求が脈打っている。


「正義が造り出すものは平和であり
正義が生み出すものは
とこしえに安らかな信頼である。 」
イザヤ書 第三十二章 十七節)


「平和を大河のように
国々の栄えを洪水の流れのように。」
イザヤ書 第六十六章 十二節より)


などなどの箇所も本当に美しいと思う。


「命令に命令、命令に命令、 規則に規則、規則に規則」
イザヤ書 第二十八章 十節)


などは、決まりきった形骸化した規則の縛りを、笑い飛ばすような柔軟で生き生きした精神を感じる。


有名な第五十三章の「苦難の僕」の所も素晴らしいが、さまざまな細部に、イザヤ書は、第一イザヤ・第二イザヤ・第三イザヤと呼ばれる、おそらく三人以上の人の手によったものとしても、ある種の独特の精神が脈打つ、史上稀なすばらしい預言書だとあらためて思った。


エレミヤ書も、久しぶりに読んで、感慨深かった。
以前読んだ時はひたすら悲しい暗い印象があったのだけれど、実際そうした側面もある半面、きちんと読みなおすと、慰めや癒しや将来への希望も語られている。
非常に強い正義への希求に貫かれている。
稀なる書物だと思う。


また、エレミヤ書で印象的だったのは、エベド・メレクのことだった。
クシュ人ということは、おそらく黒人だったと思われる。
誰もエレミヤを助けようとしなかった時に、エベド・メレクだけがエレミヤを救おうとした姿は胸を打たれる。
エレミヤもまた、奴隷解放のために全力を尽くした様子が描かれている。


哀歌も、読み直し、本当に悲しい内容だが、ときどきはっとさせられるほど美しい詩句が入るところに胸打たれた。
伝説では、エレミヤが書いたということになっている。
おそらく複数の人の手によるのだろうけれど、本当に胸を打つ、聖書の中でも最も美しい文章の一つだと思う。


エレミヤの言葉では、以下の言葉が印象深かった。


「さまざまな道に立って、眺めよ。
昔からの道に問いかけてみよ どれが、幸いに至る道か、と。
その道を歩み、 魂に安らぎを得よ。」
エレミヤ書 第六章 十六節より)


「この所で、お前たちの道と行いを正し、
お互いの間に正義を行い、
寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。 」
エレミヤ書 第七章 五、六節)


「倒れて、 起き上がらない者があろうか。
離れて、 立ち帰らない者があろうか。 」
エレミヤ書 第八章 四節)


「主はこう言われる。
正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。
寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。
またこの地で、無実の人の血を流してはならない。 」
エレミヤ書 第二十二章 三節)


「朝ごとに正しい裁きを行え。
搾取されている人を 虐げる者の手から救い出せ。
わたしが火のような怒りを 発することのないように。」
エレミヤ書 第二十一章 十二節)


本当に、今の日本に最も必要な、燃えるような正義への希求だと思う。


また、エゼキエル書も、イザヤ書エレミヤ書とはまた違った、すごさのある本だと思う。三十三章や三十四章のところは、とても深く胸を打たれた。
幻視のビジョンも本当に不思議で、なんとも神秘的である。


エゼキエル書に書かれている幻視の光景は、いまいち文章だけだとイメージしづらかったのだけれど、今はありがたい世で、ネット上に多くの画像があった。


http://www.google.co.jp/search?safe=off&hl=ja&site=imghp&tbm=isch&source=hp&biw=1339&bih=521&q=Ezekiel&oq=Ezekiel&gs_l=img.3..0l2j0i24l8.1801.1801.0.2382.1.1.0.0.0.0.107.107.0j1.1.0....0...1ac..24.img..0.1.106.nfEenVJ-3DE#imgdii=_


エゼキエル書で印象的だったのは以下の言葉。


「主なる神はこう言われる。
イスラエルの君主たちよ、もう十分だ。
不法と強奪をやめよ。
正義と恵みの業を行い わが民を追い立てることをやめよと
主なる神は言われる。 」 (エゼキエル書 第四十五章 九節)


これなど、今の日本の権力者たちにも言いたい言葉である。


一方、エゼキエル書は、弾劾だけではなく、悔い改めとそれによる救いの書でもある。


「彼らに言いなさい。
わたしは生きていると主なる神は言われる。
わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。
むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。
立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。
イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか 」
エゼキエル書 第三十三章 十一節)


「悪人であっても、
もし犯したすべての過ちから離れて、
わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、
必ず生きる。
死ぬことはない。 」
エゼキエル書 第十八章 二十一節)


これらは、今の日本にも、多くの人の心に響く言葉であるし、また響くべき言葉に思えた。


十二小預言書と呼ばれる、比較的短い、ホセア書、ヨエル書、アモス書、ナホム書、ゼファニヤ書、ハバクク書、ハガイ書、ゼカリヤ書、オバデヤ書、マラキ書、ミカ書、ヨナ書も、今回読み返していて、やっぱり聖書はすごいと、なんというか、言葉を超えて、霊気のようなものがあると感じた。
これらの預言書は、その背景の歴史である列王記や歴代誌と合わせて読むと、ひしひしと圧倒的な迫力で伝わってくるものがある。
今の日本に最も必要な警告が満ち満ちているような気もする。


たとえば、以下の言葉は、警世の言葉そのものだと思う。


「万軍の主はこう言われる。
正義と真理に基づいて裁き 互いにいたわり合い、
憐れみ深くあり やもめ、
みなしご 寄留者、
貧しい者らを虐げず
互いに災いを心にたくらんではならない。」
(ゼカリヤ書 第七章 九、十節)


「このことを聞け。
貧しい者を踏みつけ
苦しむ農民を押さえつける者たちよ。
・・・
主はヤコブの誇りにかけて誓われる。
「わたしは、彼らが行ったすべてのことを いつまでも忘れない。」 」
アモス書 第八章 四〜七節より)


「わたしは決して赦さない。
彼らが正しい者を金で 貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。
彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ
悩む者の道を曲げている。」
アモス書 第二章 六、七節より)


「商人は欺きの秤を手にし、 搾取を愛する。
エフライムは言う。
「わたしは豊かになり、
富を得た。
この財産がすべて罪と悪とで積み上げられたとは
だれも気づくまい。」」
(ホセア書 第十二章 八、九節)


「善を憎み、
悪を愛する者
人々の皮をはぎ、
骨から肉をそぎ取る者らよ。
彼らはわが民の肉を食らい
皮をはぎ取り、
骨を解体して
鍋の中身のように、
釜の中の肉のように砕く。 」
(ミカ書 第三章 二、三節)


ブラック企業とそれと結託する与党の権力者は実にかくの如しと思うし、よくよくこれらの言葉に耳を傾けて悔い改めてもらいたいものである。


一方、これらの預言書は、人を鼓舞し、励ます言葉にも満ちている。


「勇気を出せ。
国の民は皆、 勇気を出せ、
と主は言われる。
働け、
わたしはお前たちと共にいると
万軍の主は言われる。 」
(ハガイ書 第二章 四節より)


「人よ、
何が善であり
主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている。
正義を行い、
慈しみを愛し
へりくだって神と共に歩むこと、
これである。 」
(ミカ書 第六章 八節)


「その日には
わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し
その破れを修復し、
廃虚を復興して
昔の日のように建て直す。 」
アモス書 第九章 十一節)


今苦境にある人々もまた、このような日がいつか来ると信じて、がんばって欲しいと読んでいて思えた。


「わたしは命に満ちた糸杉。
あなたは、わたしによって実を結ぶ。」
(ホセア書 第十四章 九節より)


おそらく、ゴッホの糸杉を神の象徴として見る絵の数々は、このホセア書の一節にインスピレーションを受けているのではないかと思われた。


「日の出る所から日の入る所まで、
諸国の間でわが名はあがめられ、
至るところでわが名のために香がたかれ、
清い献げ物がささげられている。
わが名は諸国の間であがめられているからだ、
と万軍の主は言われる。 」
(マラキ書 第一章 十一節)


これなどは、どの民族の神もそれと知らずに同じであるということを意味していて、とても面白かった。
十二小預言書も、細部に実に面白い箇所があると思う。


また、ダニエル書も久しぶりに読んだら面白かった。


「恐れることはない。
愛されている者よ。
平和を取り戻し、
しっかりしなさい。」
(ダニエル書 第十章 十九節)


この言葉も、とても良い言葉だと思う。


また、ヨブ記は、あらためてその深いテーマと魂の底からの言葉に胸を打たれた。


「光に背く人々がいる。
彼らは光の道を認めず
光の射すところにとどまろうとしない。 」
ヨブ記 第二十四章 十三節)


「人は女から生まれ、
人生は短く 苦しみは絶えない。
花のように咲き出ては、しおれ
影のように移ろい、
永らえることはない。」 (ヨブ記 第十四章 一、二節)


これらの言葉は、あたかも仏典や平家物語の一節にあるような、哀感と美しさのある一節だと思う。


また、久しぶりにサムエル記の上下巻を読んで、とても面白かった。
ダビデが、シムイにののしられても、少しも怒らず、黙らせようとも殺そうともせずにいた姿にとても感銘を受けた。
ダビデはやっぱり偉大だったと思う。
シムイに対する態度などは見習いたいとと思った。


詩篇の全百五十章もひさしぶりに通読した。
部分はしばしば読んできたけれど、通読はひさしぶりだった。
あらためて、すばらしいと思った。
これほど、「我と汝」の精神が生き生きと脈打っている文章は他にめったにないと思う。
古今東西のさまざまなものの中でも、稀有なものだろう。
稀に見る思索と祈りの書だと思う。


また、詩編以外にも、丹念に読んでいると、けっこういろんな良い祈りの言葉が聖書にはある。


「どうかわたしを祝福して、
わたしの領土を広げ、
御手がわたしと共にあって
災いからわたしを守り、
苦しみを遠ざけてください」
(歴代誌 上巻 第四章 十節 ヤベツの祈り)


(イム・バレーク・テバラヘーニ・ヴェヒェルビーター・エ・ゲブリー・ヴェハヤター・ヤデハー・インミ・ヴェアシーター・メラーアー・レヴェルティ・オオツビー・ヴァイヤアベ・エロヒーム)


なども、良い祈りの言葉だと思った。


「主があなたを祝福し、
あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし
あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて
あなたに平安を賜るように。」
民数記 第六章 第二十四〜二十六節)


も、本当に美しい祝福の祈りの言葉だと思う。


また、第二正典の中の、「マナセの祈り」は、歴代誌を読んでマナセ王の末路を知った上で読むと、なんとも胸を打たれる。
本当にマナセ王が書いたか、あるいは後世の仮託か、わからないけれど、心情としてはこのとおりだったのかもしれない。


列王記や歴代誌も、丹念に読むと、本当に面白い、考えさせられる歴史の書だった。
一神教の厳しさや力について考えさせられるし、中東の政治環境の厳しさを思わされるし、何かこう、歴史を通底して響き続ける神の精神というものが、他国の歴史と違って、ひしひしと感じさせられるところが、イスラエルの歴史の面白いところなのだと思う。


聖書というのは、本当に、一口には言えない、多様な魅力と圧倒的な生き生きとした精神が脈打つ、汲めども尽きぬ泉のような本だと、今回再読してあらためて思った。


「井戸よ、
湧き上がれ
井戸に向かって歌え。
笏と杖とをもって
司たちが井戸を掘り
民の高貴な人が
それを深く掘った。」
民数記 第二十一章 第十七、十八節)



これは実に、聖書という泉、魂の井戸にも、よく当てはまる言葉なのだと思える。


また、しばらくしたら三度目の全読を目指したいが、当面は、トビト書などの旧約聖書続編と呼ばれる部分を読んでいきたいし、詩編箴言イザヤ書を繰り返し熟読してみたい。