モーパーゴ『兵士ピースフル』を読んで

兵士ピースフル

兵士ピースフル


先日、モーパーゴの『兵士ピースフル』という小説を読んだ。
本当に深い感動を覚えた。


どういう小説かというと、第一次大戦の前のイギリスの農村における、ある貧しい家族の大変ながらも自然の中で精一杯生きている様子が前半では描かれる。


後半は、主人公であるその家の兄弟が第一次大戦に出征し、意地悪な上官にしごかれぬいたあげく、兄の方は不条理な理由によって軍事法廷で死刑の判決を受ける。


弟は兄の死のあと、兄の妻と子どものためにもなんとしても生還しなければならない、と決意し、それからソンムの戦場に向かうところで小説は終る。


ラストのあと、主人公である弟の方が、はたして地獄の戦場だったソンム戦線から帰還できたかどうかは、本文には一切書かれていない。


著者のモーパーゴは、たまたまイープルの古戦場の近くにあるフランドル戦争博物館で、第一次大戦の間にイギリスおよび英連邦の兵士が二百九十名以上も軍事裁判で死刑となったこと、そしてその裁判は極めて短期間に即決され、多くの場合被告に弁解の機会も与えられなかったことを知ったこと、


および、おびただしい兵士たちの墓に行った時に、たまたま「二等兵 ピースフル」という墓碑銘の名前が目に入ってきて、深い印象を受けたこと、


の二つから、インスピレーションを受けて、一気にこの作品を書きあげたという。


この作品で何より胸を打たれるのは、非常に細部に至るまで情景描写が生き生きとしていて、とても絵空事とは思えない、主人公たちの小さい頃からのイギリスの農村での暮らしが本当にリアルに描かれていることだと思う。


つまり、この作品でモーパーゴが全身全霊で行っていることは、歴史の上では無名の存在として、単なる数字として、あるいはほとんど誰も見ることもない墓碑銘の名前とだけなってしまっている人の、その人生を、ありありと描くことだったのだと思う。


私たちは、通常、歴史を読む時に、たとえばなんとかの戦いでは何千人が、あるいは何万人が戦死しした、と数でしか記述を読まない。


しかし、本当は、その一人一人に、小さい頃からのいろんな苦労や喜び、家族との深い絆や願いや思いがあったはずである。


第一次世界大戦に限らない。
たとえば、日露戦争で二十五万人の日本兵が戦死した、あるいは先の大戦で三百二十万人が戦死した、といっても、本当はその一人一人にかけがえのない人生の物語があったはずである。
それは近代にも限らず、たとえば長篠の戦で一万六千人が亡くなった、あるいは長島本願寺が落城した時に三万人が殺された、という時の一人一人にも、それぞれに名前があり、家族があり、自然との触れ合いや人との絆や、いろんな苦労や社会の不条理との闘いや、その中で築いてきた、築こうとしていた、幸せや願いがあったはずである。


しかし、そうした想像力や心を、とかく忘れがちなのが、人間というものなのかもしれない。


歴史に学ばない者は愚者だというのは誰もが一応は認めることだろう。
しかし、本当に歴史に学ぶというのは、無機質な歴史の記述から学べることではなく、このモーパーゴの物語のような、良質な文学によって、本当の人間の人生や物語への想像力や追体験をきちんと行うことによるのではないかと思う。


また、この小説は、イギリスの農村の地主と雇い人との圧倒的な生活の格差を描くことによって、そしてまた、軍隊の内部での不条理を描くことによって、本当の敵はドイツというより、そして誰か特定の人間であるというより、社会の構造や人間自身が生み出している心であることが、何も説教じみたこともなくただ淡々と情景を描写しているだけなのに、おのずと考えさせられる気がする。


私たちはしばしば、何かに敵を見出し、それとの闘いに煽られ、駆り立てられる。
しかし、本当に人間の苦しみを生み出しているのは、しばしば、眼に見えやすい敵ではなく、見えにくい社会の仕組みや構造や制度かもしれないし、もっと言えば、その背後にある人間の心なのかもしれない。


第一次大戦の戦場について、「人間が生み出した地獄」と主人公が心の中で思う一節がある。
そう、戦争というのは自然現象でもなんでもなく、神や悪魔が生んだものでもなく、人間自身が自ら生み出している地獄なのだろう。


しかし、個々の庶民にとっては、どうにも抗うことのできない不条理としてもそこに現前する。
変わる方法があるとすれば、多くの人の心が変わるしかないのだろう。
そのためには、過去のさまざまな悲しみや苦しみを風化させず、語り継ぐしかないのかもしれない。


モーパーゴは児童文学というカテゴリーになるのかもしれないが、この作品は間違いなく、世界でも最高峰の文学のひとつであり、凡百の小説の到底及ばない作品だと思う。