第一次世界大戦の停戦記念日

今日は一次大戦の停戦記念日。

1918年の11月11日、第一次世界大戦が終わった。

もっと早く終えることはできなかったのだろうか。

あまりにも人が死に過ぎた。
無駄に死に過ぎた。

もう人類は、一次大戦で十分過ぎたろう。
二次大戦は全くもって余計だった。
少しは歴史に学び、賢くなるべきだろう。

千九百万人以上が死に、二千二百万人以上が負傷した。

チャーチルが回想録で述べていたけれど、一次大戦では、もはや戦争の栄光やロマンチックなものなどは消えはてて、みじめさと悲惨さと非人間性だけが際立つようになった。
ぬかるみの塹壕と鉄条網と機関銃と毒ガスの、ただただ無意味な悲惨な殺戮があっただけだった。

ナショナリズム愛国心などというものが、いかに空しいものか。
敵国へ安易に敵愾心を燃やしたり、挑みかかることが、いかに恐ろしい思ってもいない悲惨な事態を招くかもしれないことなのか。

もう人類は、一次大戦でいいかげんにうんざりするほど学んだはずだろう。

にもかかわらず、二次大戦や、その後の戦争を繰り返していることを見ると、本当に人類というのは、なかなか賢くならない愚かな存在なのだと思う。
それでも、多少は試行錯誤しながら、歴史から学んできたので、国連やEUもできたと見るべきなのだろうか。

再来年で、一次大戦勃発から百年になる。
少しずつでも、人類はもう一度、一次大戦を思い出し、そこから貴重な教訓を学び取るべきだと私には思える。

バルビュスの『砲火』や、レマルクの『西部戦線異状なし』や、トランボの『ジョニーは戦場へ行った』などの、小説や映画化された作品に触れれば、誰であろうと、心が木石でなければ、何かを感じるだろうと思う。
その何かを感じるところからしか、何も始まらないのではないかと思う。

マイケル・モーパーゴの『戦火の馬』が最近映画化されて多くの人が見たというところに、多少の希望が持てるような気はする。

一次大戦を無にしないこと。
それがせめてもの、後世の人間ができる、あの時代に亡くなった人への最大の供養と思う。