- 作者: アンリ・バルビュス,田辺貞之助
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1956/11/05
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今日、アンリ・バルビュスの『砲火』を読み終わった。
これほど鮮烈な感動を文学作品で受けたのは久しぶりだった。
全篇すごいが、特にラストは、本当にすごかった。
多くの人に読まれ、語り継がれるべき、第一次大戦を描いた文学の最高峰と思う。
著者のバルビュスは、実際に志願して最前線に赴き、激戦を戦った人物。
この作品は、その実体験に基づき、負傷して担ぎこまれた病院の中で書かれたそうである。
そのため、一次大戦の兵士たちのリアルな様子が描かれていて、本当に興味深かった。
六週間ごとに最前線に行き、数日の戦闘で生き残れると、友の死を悼みながらも、生き残れたということだけで兵士たちがハイテンションで陽気だったという様子。
負傷すると前線を離れられるのでむしろ喜んでいたという兵士たちの様子。
「ここじゃあ、あんまり先々のことを遠くまで考えちゃならねえ。たとえ考えられても、その日その日、その時間その時間だけ生きりゃいいんだ。」
(上巻、44頁)
この言葉は、きっと多くの兵士たちの実感であり、肉声だったのだろう。
兵士たちは、ともすればケンカをしたり、軽口をたたき合ったり、宿営地となった町の家の人が不親切だと家のちょっとした物品を盗んでいったりと、決して模範的とは言えない、人間臭い人々である。
一方で、宿営地となった先の町のおばあさんを助けて靴磨きをしてあげるような兵隊もいる。
家族からの手紙に、一生懸命返事を書き、限りない家族愛を抱いている存在である。
いろんな兵隊たちのエピソードが出てくるが、私が特に印象深かったのは、ウードールとマリエットの夫婦のエピソード。
一週間の休暇をもらったが、諸般の事情で一日だけ家に帰れることになったウードールは、
妻のマリエットのいる家へと急ぐ道中、大雨に遭い、同じ道を歩いている初対面の五、六人の兵隊たちと偶然一緒になり、道を案内する。
一晩しか妻と一緒にいられないし、家は狭くて一室しかないが、他に誰も泊める者がおらず、しかも大雨ということで、ウードールもマリエットも、その見ず知らずの兵隊たちを泊めてあげる。
結局、夫婦みずいらずで過ごすことは全然できず、翌朝、泊まった兵隊たちが去っていったあと、マリエットが二人で食べようと思ってたけれど、食べる暇がなかったから一人で食べて、とハムとワインをウードールに渡す。
ウードールは、元の部隊に帰ってから、みんなで分け合って食べる。
きっと本当にあったのだろうと思われる、心温まるエピソードだった。
また、戦場となった村の出身の兵隊のボテルローが、ひさしぶりに故郷を訪れて、跡形もなくなっているのを見てつぶやく台詞も印象的だった。
「こういう風になんにもなくなってしまうと、幸福だったことがはっきり分かるよ。ああ!幸福だったなあ!」
(上巻、212頁)
このボテルローは、しかし、そのあとにこうも述べる。
「一切合財やりなおしだ。よし、やりなおしとしよう。家は?すっとんじまった。庭は?影も形もねえ。そんなら、家を建てなおそう。庭も元どおりにしよう。なにもかも根こそぎなんだから、やりなおしも大仕掛けだ。だが、結局それが人生だ。おれたちはやりなおしのために生れてきたんだ。ついでに、生活もやりなおしだ。幸福もやりなおしだ。昼間も夜もやりなおしだ。
こりゃ、ほかの連中も同じだろう。奴らも奴らの世界をこしらえなおすだろう。だが、おれの考えをいやあ、思ったほど時間はかかるめえよ…」
(上巻、223頁)
この台詞は感動的だったが、しかし、ボテルローは、その直後に、戦死してしまう。
また、この小説には、主人公の部隊の中の一人に恋をして、ずっと前線についてくるウードクシーという少女がいるのだが、そのウードクシーも戦闘に巻き込まれて戦死してしまう。
少しずつ、登場人物は櫛の歯が抜けるように死んでいき、特にラストの方では、それぞれ個性ある仲間たちが、バタバタと戦死していく。
その一方で、たまの休暇で訪れる後方の町や、負傷して一時的に帰郷していた登場人物は、全然戦場に行かない人々を目の当たりにする。
仮病による兵役逃れや、コネを持っている有力者の子弟は後方の安全な場所にずっといる、ということが結構多くあったらしい。
いつの世も、まじめな、そしてコネも力もない庶民が、最前線に立たされる。
「この世界の光景は、ついには、いやおうなしに、僕らにある大きな現実を暴露してしまう。それは人間同士のあいだをへだてる差異、民族の差異よりももっと深く、飛びこえることのできない溝をもつ差異、はっきりきわだって―これは恕しえない―一国の人民の間に横たわる区別。利用するものと困苦するもの…一切を犠牲にすることを、数を、力を、忍苦を、すべてをい犠牲にすることを要求されるものと、その上を踏みつけてすすみ、微笑を浮かべながら成功するものとの差異だ!
(中略)
「国がひとつだなんて、嘘の皮だ」
(中略)
「二つの国があるんだ。まったく赤の他人の二つの国に分かれているんだ。向こうの前戦には不幸な連中が多過ぎるし、ここの銃後には、幸福なものが多すぎる…」」
(下巻、183頁)
後方の町を一日訪れて、勝手なことばかり言う銃後の人々を見て、主人公たちが思うこの思いは、おそらく、とてもリアルなことだったのだろうと思う。
一方で、主人公たちは、遠くから前線に駆けていく戦友たちを見て、このように思う。
「この小さなしみのひとつひとつが、おののきやすい脆弱な肉体をもち、無限の空間のなかではまったく無力だが、深い思考と長いあいだの追憶と一群の影像とを胸いっぱいにいだいている存在だとはとうてい信じられない。空の星と同じように小さい、この人間の塵屑をみていると、目のまえがくらくらしてくる。
気の毒な同胞よ、気の毒な未知の男たちよ、今は君たちがたたかう番だ!が、次にはぼくらの番になるだろう。おそらくは明日、僕らは頭上で空が咆えたけり、足もとで地面が割れるのを感じるだろう。砲弾のすさまじい大軍におそわれ、実際の旋風よりも百倍も千倍もはげしい旋風の息吹になぎとばされるだろう。」
(下巻、73頁)
やがて、再び主人公たちも最前線に立つ。
リープクネヒトについて、「未来」について熱く語る、いつも堂々としていた、このような人物こそ戦後に生きていれば、と思われたベルトランも、あっけなく戦死してしまう。
ペパンという戦友は、敵の塹壕の中に飛び込んで勇戦奮闘しているところに、味方から「煙」つまり毒ガスがその塹壕に撒かれたために死んでしまう。
おびただしい戦死者の前では、あらゆる宗教は「嘘と無駄言」(下巻、141頁)、神はいないと、兵士たちは語る。(下巻、161頁)
「戦争では、生も死も、互いに考える暇さえくれずに、僕らを引き離してしまう。」
(下巻、151頁)
圧倒的な迫力で、戦場のシーンが描写されるが、それらはきっと実際に戦場を体験したバルビュスだからこそ描けたのだろう。
作品の十分の九は、実際の戦争の情景の描写ばかりなのだが、ラストの方になると、その結果としての、主人公たちの思いや考えが、堰を切ったように表白される。
《観兵式じみた突撃や、赤い吹き流しのようにひろがった、眼に見える戦闘や、またはわめきちらしながらあばれまわる肉弾戦なんかよりも、戦争って奴は、おそろしい、この世のこととも思われない疲労であり、腹までつかる水であり、泥であり、汚物であり、眼もあてられない汚さだ。戦争とは、かびのはえた顔、ぼろぼろになった肉、貪欲な大地のうえにただよう、もはや死骸とも思われないような死骸だ。戦争とは、ときどき物すごい悲劇で中断される、この際限もない単調なみじめさだ。戦争はそうしたものだ。銀のようにきらきら光る銃剣や、牡鶏が太陽に向かってときをつくるような、あのラッパの響きではないのだ》
(下巻、219頁)
「「戦争と大まかに言ってみても」と、彼は心に思うことを大声で言う。「なんの意味もありゃしねえ。戦争は言葉にゃあらわせねえ。現におれたちも、こうして戦争をみてるが、まるでめくら同然じゃねえか」」
(下巻、221頁)
「「誰にも分りゃしねえ。分ってるのは自分だけだ。」
「ううん、おれたちだって分ってやしねえ、分ってやしねえぞ!」と、誰かが叫ぶ。
「おれもお前と同じ考えだ。おれたちも忘れるからなあ、おれたちだって…もうだいぶ忘れかけてるじゃねえか!」
「あんまりいろんなことを見たからなあ!」
「それに、見てきたひとつひとつが、こみいりすぎてるよ。おれたちはそんなにたくさんんのことを頭のなかへ詰めこめるようにゃできていねえ。…右から左へ抜けていっちまわあ。おれたちの頭はちっちぇえんだからあな」
「そりゃ、忘れるさ!お前のいうとおり、そもそものはじまりからじゃあ、数えることもできねえ、あのひでえみじめさがどれだけつづいたか、もう覚えちゃいねえ。空へもりあがるかと思われるような荷物の重みに押しつぶされながら、足はつぶれ、骨もすりへる思いで、泥のなかをこねくりまわして歩いた行軍や、自分の名前も忘れちまうほどの疲れ、骨の髄までくたくたになる足踏みや停止、力にあまる作業、夜の暗闇のなかの四方八方にいる敵を警戒しながら、眠気と戦わなければならねえ、際限もねえ不寝番。―それから糞としらみの枕。だが、忘れるのは、これだけじゃねえ。大砲や機関銃や、地雷や毒ガスや、逆襲のひでえ被害もけろりと忘れちまう。おれたちはその場その場の眼先きの興奮でいっぱいなんだ。それも無理ではねえ。だが、そういうことは心のなかでだんだんと影がうすれて、どこへどういう風にいっちまうのか分からねえが、みんな消えてなくなる。そして、戦況公報みてえに、名前や言葉だけしか残らなくなるんだ」
「あいつのいうことはほんとだ」と、泥の首枷をはめた男が首も動かさずにいう。「おれは帰休でけえったとき、それまでのことをあらかた忘れいるのに気がついたよ。おれのやった手紙がまとめてあったので、本でもあけてみるように読みかえしてみた。ところが、そういう手紙を書きながら、おれは戦争の苦しみさえ忘れているんだ。おれたちは忘れる機械だ。人間てものは、少しは物を考えるが、忘れるのが第一なんだ。おれたちはそうしたものよ」
「誰だって、そんなものだ。あんなにひでえ目にあったのも、けろりと忘れちまったからなあ!」
こういう考えが、もっと大きな不幸の前触れでもあるかのように、兵隊たちをいっそう失望させ、みんなは大洪水の浜辺にべたりとつぶれてしまう。
「ああ、もしも忘れなかったらなあ!」と、ひとりが叫ぶ。
「もしも忘れなかったら、もう戦争はなくなるだろう」と、別のものがいう。
三人目の男がもったいぶって附けくわえた。
「すだ、忘れなければ、戦争もこれほど無駄じゃなくなるだろう。
だが、とつぜん、寝ていた生残りのひとりが身体をおこして膝をつき、泥まみれの大きなこうもりのような真黒な顔で、泥だらけの上でをふるって泥をおとしながら、にぶい声で叫ぶ。
「もうこれっきり戦争があっちゃならねえぞ」」
(下巻、222-224頁)
この忘却をめぐる会話を読んでいて、一次大戦の兵士たちの思いや経験を風化させないための、痛いほどのバルビュスの思いや願いが伝わってきた気がした。
単なる写真や年表ではなく、バルビュスが書き残してくれたおかげで、ほんの一端でも、一次大戦の兵士たちの思いや経験が、百年後の私も読むことができたわけで、そのことは本当に貴重なことだと思う。
「「おれたちは生きるために生れてきたんだ。こんな風にくたばるために生れてきたんじゃねえ」
「男ってものは亭主や親父に―つまり人間に―なるために生れてきたんだ。けだもののように追いまくられ、ぶっころされ、くさって行くために生れてきたんじゃねえ」
「ところが、どこもかしこも、けだものばっかりだ。猛獣でなけりゃ、押しつぶされるけだものだ。ほら見てみろ、見てみろよ」
(中略)
「生きるんだ!」
「おれたちが!お前も…おれも…」
「もう戦争やいやだ。まっぴらだ…くだらなすぎる!…くだらねえどころか、あんまり…」
(中略)
「二つの軍隊が戦うのは、ひとつの大きな軍隊が自殺するのと同じことだ」
「とにかく、この二年間、おれたちはいったいなんだったろう?ほんととも思われねえほど不幸な人間だった。が、それよりも、野蛮人であり、人非人であり、山賊であり、きたならしい乞食だったじゃねえか」
「それよりわりいや!」」
(下巻、225-226頁)
「「ドイツがなくなれば、戦争もなくなるだろう」と、ひとりの兵隊がどなる。
「そんなことをいったって駄目だ!」と、もうひとりが叫ぶ。「それだけじゃ足りねえ。戦争精神をたたきつぶしてしまわけりゃ、戦争はなくならねえぞ!」
(下巻、227頁)
「戦争をぶち殺さなけりゃならねえ。戦争を!」
(下巻、229頁)
「「奴らの話はもうたくさんだ」と、彼らのひとりが命令口調でいう。「奴らなんかどうでにでもなれ。…問題は、おれたちだ!おれたち全部のことだ!」
庶民階級相互の理解、世界の民衆の奮起、粗野なまでに単純な信念…これ以外のことは、ほかのことは、過去、現在、未来を通じて、絶対にどうでもいいのだ。」
(下巻、245頁)
これらの兵士たちの思いや、肉声を、いったい、後世の者は、どれだけ記憶してきたのだろう。
残念なことに、一次大戦では戦争は終わらず、それどころか、ほんの二十年ぐらいで再び第二次世界大戦が始まってしまった。
バルビュスの思いや努力は虚しかったのだろうか?
だが、ナチスが短期間で滅び、国際連盟が国際連合となって、多少なりとも続く組織となり、今のところ第三次世界大戦も起らずに済んでいることを考えれば、バルビュスが書き綴ったことは、無駄ではなかったのかもしれない。
また、無駄にしないためには、後世の我々が、どれだけ、これらの記録や思いを受けとめるかにかかっているのだろう。
バルビュスの『砲火』は第一次大戦を描いた文学として一応今でも有名なのかもしれないが、実際に読まれることは今日少ないようである。
多くの人に、きちんと読まれ、語り継がれるべき本だと思う。