無常を深く見つめること

箴言を読んでいて、とてもこの言葉がしみじみ味わわれた。


Do not boast about tomorrow,
for you do not know what a day may bring.
(Proverbs 27.1)


明日のことを誇るな。
一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。
箴言 第二十七章 第一節 新共同訳)


翌日のことを自慢してはならない。
一日が何をもたらすのかあなたは何も知らないのだから。
箴言 第二十七章 第一節 自分訳)


アル・ティトゥハレル・ベヨム・マハール・キー・ロー・テダー・マー・イェレッド・ヨム


その日のうちに何が起こるかわからない。
だから、明日のことをたのみにしてはならない。
という意味だろう。


無常への深いまなざしがそこにはある。


無常というのは、べつに東洋の者だけが思うことではなく、古代イスラエルの賢者もこのように深く見つめていたことなのだろう。


特に、ユダヤ人の場合は、歴史を通じてあまりにも過酷な不条理な目にしばしば遭ってきた。
それだけに、この言葉には深い深い思いと背景があったのかもしれない。


本当に人は、よく考えてみれば、一日のうちに何が起こるかはわからない。


未来というのは、いつも想像の範囲を決して出ることがない、現時点より先のことだ。
何も確定したことも確実なことも、未来には本当はない。


朝には元気でも、夕べには交通事故やテロに巻き込まれて命を落としてしまう人もいる。
自分に限ってはそんなことはないと誰もが思っている。
しかし、万が一ということを考えれば、誰かに起こりうることは誰にでも起こりうる。
思いもしない天災によって運命が一変することは、阪神大震災東日本大震災などで、日本人はつい最近も目の当たりにしてきた。


悪いことばかりでなく、良いことも未来には何が起こるかわからない。
今までくすぶっていた人が、急に運が向いて高く持ち上げられることもしばしばある。
ナポレオンも若い頃は、自分の未来は真っ暗と思うことも時にはあったそうである。
秀吉もまさか天下人に自分がなるとは思いもしなかったろう。
宝くじに当たる人もいれば、一目ぼれで電撃結婚する人もいる。
敗戦の焦土において、日本がほどなく経済大国になるとはほとんど誰も思わなかったろう。


釈尊の弟子になった人々も、イエスの弟子になった人々も、その出遇いの前は、まさかその後にその御弟子になることも、それからどのような人生になるかも、想像もしていなかったに違いない。


人生においては、未来は本当の意味では予測不能であり、良いことも、悪いことも、何が起こるのかわからない。


だからこそ、人はできる範囲で、なるべく良い結果を生むように今を努力しつつ、何かの場合には相互に助け合う仕組みを社会においてつくったり、不慮の災害や災厄を事前に避けるための努力をしておくべきなのだろう。
人の力には限りがある。
しかし、限りがあるからこそ、運命という洪水に対する防波堤をなるべくつくっておくべきなのだろう。


また、何か良きことや良き出遇いが会った時は、すぐにそれがわかり、それを受け入れることができるような、素直な柔軟な心を育てておく方が良いのかもしれない。


しかし、究極のところは、無常ということに透徹すれば、あまり心配しても仕方ないし、いかなる物事も人事を尽くした上は、従容と受けいれるしかないのかもしれない。


アンリ四世は、「すべてはそうなるべきであった」といかなる運命の変転にあっても、なるべく思うようにしていたそうである。


この箴言の言葉も、じっくり読むと、深い諦念と、それゆえの静かな平和や静けさがある言葉のように思う。


この箴言の言葉を読むと、連想させられる言葉がある。
マタイによる福音書の中の以下の言葉である。


「あすのことを思いわずらうな。
あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」


この福音書の言葉は、明日がわからないからこそ、今日を楽しく生きるように勧めている。
あたたかな明るい響きがある。
エスの深い愛がある言葉である。


私たちは、とかく無常ということを忘れ、いつまでも同じ日が続くように錯覚しがちである。
そして、今日のかけがえのなさを忘れ、命に張りを失ってしまう。
本当は、明日何が起こるかわからないからこそ、今日を大切に集中して生き、心をこめて人を愛し、自然を愛し、生きとし生けるものを慈しんで生きていくべきなのだろう。
そこにおいてのみ、何か良きおとずれがある時に、即座に応じることができるような土壌を耕すこともできるのだと思う。


箴言の言葉と福音書のこの言葉を、無常を忘れがちな愚かな自分であればこそ、私は繰り返し心に思い起したいと思う。
それはまた、東洋における無常への深い観察と、決して別のものではない、よく通じ合うもののように思う。