お天道様は見ている

箴言には、ごく短い言葉で、当たり前のようでありながら、よく読むと非常に印象的な言葉がある。


The eyes of the Lord are everywhere,
keeping watch on the wicked and the good.
(Proverbs 15.3)


主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている。
箴言 第十五章 第三節 口語訳)


どこにも主の目は注がれ
善人をも悪人をも見ておられる。
箴言 第十五章 第三節 新共同訳)


主の眼は全ての場所で、
悪い者たちを、そして善い人々を、
見つめておられる。
箴言 第十五章 第三節 自分訳)


ベホル・マコム・エーネー・アドナイ・ツォフォット・ライーム・トヴィーム


この言葉、とても印象深い。


自分を見ている大いなる眼が存在していることを、
心強く感じるか、
あるいは恐ろしく感じるか。


そのどちらかは人の生き方によるのかもしれない。


日本でも、昔から、同じようなことを言い現わして、「お天道様が見ている」と言ってきた。


まっとうに生きていれば、お天道様が見ているからこそ、頼もしく心強く、何か困ったことがあっても必ず大丈夫だという勇気につながる。


逆に、ゆがんで曲がって生きていれば、お天道様が見ていることを思う時に、悔い改めるか、もし悔い改めないならばどうにも恐ろしい済まない気持ちになる。


人間というのは、古今東西どこでも、そのような生き物なのだと思う。


ただし、良心の目が曇ってくると、この神の眼、お天道様の眼というものが、見えなくなり、忘れてしまうことがあるのだと思う。


たとえば、何らかの行為をする時に、本当に神仏の眼の前で恥じずに言えるか、行えるか。
そのことをよくよく考えれば、たいていの行為は間違わずに済むのだろう。
しかし、人はこの眼を忘れて、このことを考えずに、しばしば何かを言ったり行ったりしてしまう。
その結果として、愚かさや罪を重ねることになるのだろう。


この箴言の味わい深いところは、神の眼が見ているからと言って、それが裁くもなのかどうか、どのようなまなざしなのか、全く書かれていないところだと思う。


一見、ぱっと読むと、悪人には怒りの鉄槌を降すような、そういう注視のような気もする。


しかし、実はそうではなく、ひたすら慈悲のまなざしなのかもしれない。


善人も悪人も、裁くのではなく、なんとか救いとろうとする、慈悲のまなざしなのかもしれない。


このじっと永劫の昔から待っている慈悲のまなざしに気付いた時に、人は本当の意味で行いを悔い改め、立ち直っていけるのかもしれない。


裁くのではなく、滅ぼすのではなく、見つめ続けること。


それこそが、本当の愛ということなのかもしれない。


仏教においても、無量寿経や、またそれを敷衍して正信偈を書いた親鸞聖人は、「覩見」(とけん)ということを述べた。
これは、如来は私たち一人一人の裏も表も見抜いて、見抜いているからこそなんとか救いとろうと働き続けており、慈悲と願いをかけ続けている、ということである。


福音書におけるイエスは、そのような生き方を身を以て示した。


古代エジプトでは、よく眼の形をした太陽が描かれている。


洋の東西を問わず、今も昔も、人間にとってはこのような天のまなざしを心に思う時に、本当に正しく生きていくことができるのかもしれない。