メモ帳 沖縄特措法改正関連

沖縄不在、橋本・小沢合意で急展開 改正特措法成立(時時刻刻) (1997年4月18日付 朝日新聞


 沖縄問題をめぐって永田町で何が起きたのか。改正駐留軍用地特別措置法は「政策別連合」の第一歩を印象づけるとともに、政界再々編の本格化を予感させながら、十七日成立した。「自社さ連携」重視の加藤紘一幹事長ら自民党執行部と、「圧倒的多数での成立」を理由に新進党との協調をめざした橋本龍太郎首相や梶山静六官房長官。「保保連合」に活路を求めた小沢一郎新進党党首や中曽根康弘元首相ら。三者三様の思惑が絡み合うなか、民主党なども賛成になだれを打った展開を検証した。
  
 ◇検証・特措法改正1〜3月
 今月三日夜、首相官邸。前日に続く自民・新進党首会談で、合意文書を手にした首相に、小沢氏は言った。「打ち合わせ済みだからいいですよ」。政界を揺るがした合意のあっけない決着が、逆にそれまでの暗闘を物語っていた。
 話は三カ月前にさかのぼる。
  
 ●1月
 一月十四日、シンガポール。東南アジア歴訪中も首相は沖縄問題で悩んでいた。「与党の関係をベースにしたいが、別の枠組みの協力が必要な場面が出てくることもあり得るな」と周辺にもらした。
 十七日。梶山・小沢会談があった。小沢氏は行財政改革自民党との「保保連合」をもくろんでいた。が、梶山氏の話題は「沖縄」ばかり。小沢氏にとって色よい返事はなかった。
  
 ●2月
 二月に入り、一九九七年度予算案の審議の裏で沖縄問題が動き出す。十四日、加藤幹事長が社民党土井たか子党首と話し合う。
 同じころ、梶山氏は社民党村山富市前首相に会った。村山氏は「特措法への賛成は難しい。新進、太陽が賛成するから、いいじゃろう」。梶山氏は「三分の二を超える圧倒的多数で通したい」と伝え、この会談を機に新進党も含めた多数派工作にカジを切る。
 二十四日、首相公邸。朝食をともにした米国のオルブライト国務長官に、首相は言った。「日米安保条約を断固守り、基地使用を無法状態にすることはない。たとえ政権の組み替えや首相の交代があっても」
  
 ●3月
 三月五日、予算案が衆院を通過し、国会は「沖縄の季節」に入る。自民党執行部は当初、米軍兵力の削減協議で米政府から言質を取れれば、社民党も賛成すると踏んでいた。昨年の普天間飛行場返還合意に続く隠し球というわけだ。その一方で、衆参両院で「社民抜き」での過半数獲得工作も繰り広げる両面作戦をとった。
 一方、小沢氏もオルブライト国務長官と会談。米側が海兵隊の削減に応じる気配はないとの印象を強め、いずれ自社両党の距離が広がると感じた。十六日の記者会見では「海兵隊削減を求めるべきではない」と述べ、首相に同調する。オレンジ共済組合事件で窮地に立った小沢氏の反転攻勢だった。二十四日、首相は米国のゴア副大統領に海兵隊削減を求めない考えを改めて強調し、自民党執行部は社民党の理解を得る手だてを失った。
 二十四日夜、自民党村上正邦参院幹事長が、小沢氏側近の平野貞夫参院議員を東京・赤坂の小料理屋に呼び出す。村上氏は「安定的な成立のために決着は党首会談で。セットは中曽根さんにしてもらう」と提案。中曽根氏が絡んだ党首会談による決着という筋書きが動きだした。
 二十五日、沖縄県大田昌秀知事との会談を終えた首相は、続けて社民党の土井党首らと会談。協力を求めた首相に、土井氏は言った。「よろしくって、何のこと!」
 その夜、都内の料理屋では中曽根氏の議員在職五十年を祝う会が開かれた。中曽根内閣当時の閣僚ら五人が出席した。
 中曽根氏 改正案の採決は二十票、三十票差ではだめだ。大連合につながるような構想を進めている。橋本君、梶山君、小沢君は了解済みだ。創価学会の秋谷(栄之助)会長にも話をつけた。
 後藤田正晴官房長官 二、三十票差だから、いい。米国に日本の現状を正しく伝えられる。新進抜きで成立できるなら、それでいいんじゃないか。
 この日、国会内で梶山氏が野中広務幹事長代理にささやいた。
 梶山氏 おまえ、「梶山は保保論者でけしからん」と言え。
 野中氏 わかった。そのかわり、本気ではケンカしないでおこう。
 後藤田氏に考えが近い野中氏は、民主党などの引き込みのために、「保保」を材料としてつかう腹づもりだった。一方、圧倒的多数の賛成をめざす点で中曽根氏と一致する梶山氏は本気で新進党の賛成を望んだ。この違いが、その後の混迷の遠因になった。
  
 ○極秘の「竹下・小沢会談」
 翌二十六日夜、中曽根氏は都内のホテルで小沢氏と会い、合意づくりに動く。連絡役は新進党野田毅政審会長。中曽根氏の介在は、永田町に「保保連合」の影を一気に広げた。
 二十七日には別の「保保」が急浮上する。亀井静香建設相に近い若手議員が、新進党議員と勉強会を旗揚げしたのだ。加藤執行部は、三月中旬に小沢・亀井会談があったことも知り、「自社さ」派だった亀井氏の変ぼうに衝撃を受けた。
 二十八日夜、甲府市内。竹下登元首相と小沢氏が会談した。翌日の金丸信元副総裁の一周忌のために、二人は同じホテルに宿泊。竹下氏は「俺の部屋で会うのも何だから」と、別の名前でもう一室とっていた。竹下氏の登場は「沖縄問題に絡んだ竹下、中曽根両氏の『院政』をめぐる主導権争い」(自民党幹部)の側面をのぞかせた。旧小渕派はその後、メンバーに「亀井勉強会」への欠席を指示し、「保保」と一線を画す姿勢をとった。
 金丸氏の一周忌では、会場にぽつんと座る小沢氏に梶山氏が歩み寄り握手を交わした。中曽根氏は「国家を考えて」とあいさつし、新進党との連携に意欲を示した。水面下では与謝野馨官房副長官が野田氏らと合意づくりを続けていた。
 同じ日、加藤執行部は社民党への説得を断念する。新進党が法案反対なら、「賛成組」が飛び出すとみていた。並行して民主、太陽両党に「保保封じ」のためにも協力するよう求め、よい感触も得ていた。採決で新進党崩しを促す執行部の戦術と、梶山、中曽根両氏がめざす新進党との連携。相反する筋書きが、それぞれに進んでいった。
  
 ◇検証・永田町攻防4月
 ●4月
 ○自民執行部「寝耳に水」
 四月一日自民党執行部に寝耳に水の「合意」の話がもたらされた。首相が「ちょっと、のどにつっかえる内容なんだ」と伝えてきた。
 屋良朝苗沖縄県知事の県民葬があった二日、野中氏は官邸に出向く。
 自民・新進合意案が、小沢氏の唱える抜本改正に近いと知り、梶山氏に「冗談じゃない」と息巻いた。
 特措法改正案を審議する衆院特別委員長の内定返上も口にした。
 野中氏はその足で民主、太陽両党幹部に会い「保保は食い止めた」と説明した。
  
 ○梶山氏「政治生命かけ」
 この日、梶山氏もめまぐるしく動く。
 旧公明党国会対策委員長創価学会自民党とのパイプが太い新進党権藤恒夫氏に、自分で書いた未発表の論文『日米安保と沖縄』を手渡し、改正案への賛成を求めた。
 「深夜、沖縄のことをあれこれと考えてなかなか眠りにつけず……すると決まって目の前に浮かんでくるのが(最後の激戦地)摩文仁(まぶに)の丘である」
 梶山氏は民主党鳩山由紀夫代表、邦夫副代表も自らの事務所に呼び、賛成を要請する。「秘」の判が押された改正案づくりの経過を示す内部文書を示しながらの説得だった。
 その夜の三時間半に及ぶ橋本・小沢会談では酒も出た。
 途中、首相は二度、加藤氏に電話を入れた。「合意拒否、決裂やむなし」という加藤氏に、声をあらげた。「そんなふうに党首会談を終わらせるわけにはいかないだろう」
 三日、国会の一室。
 梶山氏 私は沖縄問題に政治生命をかけているんだ。
 山崎拓政調会長 私もそうだ。法案が提出されれば、執行部に任せてほしい。さもなくば、政調会長を辞めます。
 村岡兼造国対委員長が「あんたら、法案に反対なのか」と取りなし、官邸側が予定していた昼の第二回橋本・小沢会談を延期することでおさまった。
 執行部は「合意拒否を貫けば首相との全面戦争になる」(幹部)と譲歩したが、山崎氏は京都にいた加藤氏を呼び戻し、同時に民主、太陽両党との党首会談を新進党より前に設定して「保保」が際立つのを避ける策に出た。
  
 ●そして…
 ○「柔軟にやれ」と小沢氏
 民主党は、修正案を出して否決されたら政府案に賛成する窮余の策で党内をまとめた。「保保」への懸念を理由に加藤氏らを助けて発言権を確保しようとした。
 自民党内の攻防を目の当たりにした新進党には「合意はできるのか」との不安が漂った。
 与謝野氏と合意文案を詰める平野氏に、小沢氏は言った。「こちらの主張にこだわりすぎれば全体が壊れることがある。実を取って柔軟にやれ」
 その後、加藤氏らは民主、太陽両党との連携を急ぎ、十四日には医療保険制度改革などを進めることで民主党と合意した。
 いま自民党内では、首相に対して「クリントン米大統領に会う前に、圧倒的多数で特措法を改正したかっただけだろう」「『保保』と『自社さ』のバランスに乗る人。あそこで小沢氏に引導を渡し、梶山氏のメンツをつぶせば片足立ちになる不安があった」と、さまざまな見方がある。
 梶山氏については、旧小渕派内でも「保保論者ではなく、国対委員長の役を演じたにすぎない。本人は『悪魔とも手を結ぶ』といっていた」「窮地の小沢氏を救い、保保論者の本性を見せた」という二通りの評価が交錯している。




野中氏発言の削除こそ翼賛的(ポリティカにっぽん) (1997年 4月15日付 朝日新聞

 たいていは用意された文章を読み上げるだけの退屈な国会壇上も、ときに意外なドラマをみせる。駐留軍用地特別措置法(特措法)改正案を可決した十一日の衆院本会議がそれだった。
 「この法律が沖縄を軍靴でふみにじる結果にならぬように。私たち、古い苦しい時代を生きてきた人間は、国会の審議が再び大政翼賛会的にならないよう若いみなさんにお願いしたい」
 衆院安保条約土地使用特別委員長の野中広務氏、七十一歳。ふつうはごく事務的に読み上げるだけの委員長報告の最後で、「一言、発言をお許しください」と切り出し、こう訴えたのだった。こんな異例な発言の場面、昨今、記憶がない。
 一九三六年十一月、いまの国会議事堂の建物はできた。いまと同じ、この本会議壇上で演じられた政治ドラマといえば、まずは、その翌年一月の、政友会の浜田国松の「切腹問答」がある。
 軍の膨張を論難した浜田の演説を聞いて、寺内寿一陸相は「軍人を侮蔑(ぶべつ)」と怒った。浜田は「速記録を調べて侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する。なければ君割腹せよ」と言い返した。
 四〇年二月、日中戦争の深まるなか、民政党斎藤隆夫は「聖戦の美名に隠れて国民的犠牲を閑却し」と論じ、また軍部が怒った。こんどは演説は大幅に削除、斎藤は衆院を除名された。反対した議員はわずか七人。政党が次々と解党し、軍部迎合の「大政翼賛会」ができたのは、その年九月のことだった。
  
 ◎「一色」を嫌う信条
 野中氏は同じ旧竹下派のなかで、「反小沢」の闘将で知られる。特措法改正で社民党が反対に回ったのを、「夫婦だってけんかをすれば、二、三日口をきかないこともある」とかばった、「自社さ」派の中心人物でもある。
 だから、橋本龍太郎首相が新進党小沢一郎党首との会談で賛成合意に走ったのには、野中氏は激しく反発した。「大政翼賛会」発言は、こうした権力抗争の一局面であることは間違いない。
 だが、それだけではない、野中氏の年代の人生体験が背景にあることは、著書『私は闘う』(文芸春秋)からうかがうことができる。
 野中氏は四五年の敗戦を高知駐屯の部隊で迎え、生きがいを失って、坂本竜馬像の前で自決しようとした。東条英機に批判的だった将校に戒められ、京都の郷里に帰った。青年団活動から長く地方議員を務め、共産党主導の京都府政に対決もした。野中氏はこう書いている。
 「戦前の体験から私は、一色に束ねる、ということに生理的に反発するようになっていた。一色に束ねられた組織は必ず間違いを起こす。迎合してはだめだ。自分のあたまで考えなければ」
 六二年、野中氏は沖縄戦で死んだ郷里の人の慰霊塔をたてるべく、初めて沖縄を訪ねた。そのとき乗ったタクシーの運転手が「あのたんぼのあぜ道で私の妹が殺された。それもアメリカ軍にではないんです」と泣き叫んだ。
 野中氏は今回の「大政翼賛会」発言の前段で、このエピソードを語っている。ここに、一色に束ねられた戦前の日本の過ちをみたのだろう。
  
 ◎政党自滅の歴史も
 いまは、こんな軍部があるわけではない、今度の状況を「大政翼賛会」というのは、梶山静六官房長官がいうように「ナンセンス」かもしれない。にっぽんの民主主義は確かに、よほど根付いている。
 だが、今回、米国への気遣いからか「海兵隊削減はいまいうべきでない」の一点張りで押し切ったあたり、基地提供は「条約上の義務」であることもわかるけれども国民の権利制約に九割もの議員がたちまち賛成したあたり、やはり「一束」のあやうさを感じざるをえない。
 それよりも何よりも問題なのは、衆議院規則では「委員長は自己の意見を加えてはいけない」らしく、野中発言は会議録から削除されることである。野中氏もそれは承知で発言したのかもしれない。
 が、斎藤隆夫演説の削除から政党が自滅していった歴史もある。法案が多数で通ったこともさることながら、野中発言の削除の方が、むしろ「大政翼賛会的」で憂うべきことなのではないか。



自進合意の裏に米の影 国務長官と小沢氏2月接触 特措法改正案可決 (1997年 4月11日付 朝日新聞

 沖縄基地問題で、新進党小沢一郎党首や周辺が米政府高官らと接触、米側の姿勢を確認した上で対応方針を練っていたことが十日明らかになった。米側の「海兵隊の削減拒否」の姿勢は固く、削減問題を執拗(しつよう)に持ち出せば、両国間関係を揺るがしかねないと判断したという。小沢氏は最終的に橋本龍太郎首相と基地問題について「国が最終的に責任を負う」との合意文をまとめ、駐留軍用地特別措置法改正案への賛成を決めたが、背景に米側の意向が少なからず反映していたといえそうだ。
 関係者によると、小沢氏は二月二十四日ごろ、東京都内でオルブライト米国務長官と会談、「日米安保体制は重要」との認識で一致したという。同時に米側には海兵隊削減に応じる考えはないとの印象を強めたようだ。ただ、小沢氏自身はこの会談を否定している。
 小沢氏は三月十六日の記者会見で、「米国のプレゼンスは、私どもの要請のもとで、ある。これを『撤退してくれ』というのが、日本から出ることはあり得ない」と強調。「それと沖縄県民のご苦労を一緒に議論することは間違いだ」と指摘したのもこの会談を踏まえたものとみられる。
 また、小沢氏周辺も米政府の意向をよく知る米人学者らと接触。三月中旬には外務省OBから「事務レベル折衝で、日本側から海兵隊削減を持ち出したが、米側は怒り出してしまった」と聞かされ、後日、この情報を小沢氏に伝えたという。



特措法改正「政府案賛成できぬ」 小沢氏、橋本首相に抜本対策迫る (1997年 4月3日 朝日新聞

 橋本龍太郎首相(自民党総裁)と新進党小沢一郎党首は二日夜、沖縄の米軍用地の強制使用継続の問題をめぐって、首相官邸で会談した。橋本首相は日米安保条約上の義務を果たす必要があるとの立場から駐留軍用地特別措置法(特措法)を改正して対応する考えを伝え、新進党の協力を求めた。これに対して、小沢氏は「当座しのぎの小手先の法案は、だれにとっても良い結果をもたらさない。我々としては賛成しがたい」と述べ、抜本的な対策を検討するよう求めた。しかし、合意にはいたらず、近く再会談することになった。
 会談は午後八時半から約三時間半にわたって行われた。
 会談のなかで、小沢氏は「沖縄の基地を本土に移転するとか、米国と交渉して縮小するということも、日本国民の皆が考えなければならない。政府に責任を負わせることが沖縄にとって良いと思う」と述べ、基地用地を安定的に米側に提供するとともに、基地問題への国の責任を明確化するために、土地収用手続きについての権限を都道府県から国に移すなど、抜本的な制度の見直しが必要だとの考えを表明。具体的な抜本策を示し、自民、新進両党の政党間合意の形でまとめるよう提案した。首相も政府の責任を重視するという点については賛意を示したものの、具体的な見直しの進め方などについては合意に至らなかった。
 自民党幹部によると、首相は小沢氏から示された抜本策について加藤紘一自民党幹事長らと連絡をとり協議したが、加藤氏らは難色を示したという。





小沢一郎の政治](4)外交・安保論は異質か 米重視、割れる評価 (読売新聞 1997年 5月27日付)

改革を掲げる小沢一郎の内外政策の中で、これまでとかく論議を呼んだのは「対米外交」と「安全保障」に関する政策だ。とくに対米外交では、「緊密な日米関係の維持」を最優先する姿勢が際立っている。
 沖縄問題に関連した駐留軍用地特別措置法(特措法)改正の政府案に対して小沢が賛成を決断するまでに、実はこんな場面があった。
 三月十七日夜、小沢側近の参院議員・平野貞夫は外務省の元幹部から「日米関係がとんでもない迷路に入り込んでいる」との情報を得た。「特措法改正に社民党を乗せるため、外務省が事務折衝で沖縄の米海兵隊の削減を持ち出したところ、クリントンのスタッフがプイと横を向いてしまい、下手をするとアメリカはしばらく駐日大使も決めず、日米関係がとんでもないことになる」というものだ。
 平野から報告を受けた小沢は強い危機感を抱いた。平野によれば、小沢はこの時から「基地問題は国の責任で処理する制度に改めなければいけない」と明確に考えるようになったという。
 日米関係についての小沢の基本的な考えはこうだ。
 〈敗戦後、日本を全面的に支援してくれたアメリカの力が弱まってきて、日本にいろいろな注文をつけている。アメリカと仲良くしていくことが日本の生存の前提条件である以上、可能な限り要求に応えるべきだ〉(自著「語る」)
 在日米軍の削減問題についても「軍事的な問題に限って見てはいけない。政治的に判断し、日本とアジアの平和確保のため、考えられる将来、ずっと米軍のプレゼンス(存在)を望んでいる」と強調する。
 小沢の後見役だった元自民党副総裁・金丸信(故人)は「アメリカあっての日本」が口癖だったが、小沢の考えも基本的に同じである。違いは時代背景と、やや受け身の対米重視だった金丸に対し、小沢の方がはるかに踏み込んでいる点だ。
 小沢のこの姿勢を、立教大教授・斎藤精一郎は「冷戦時のアメリカ一辺倒と、冷戦後のアメリカ一辺倒では違う。小沢的な基本理念、構想は魅力的で新しい意味がある」と評価する。
 しかし、「対米服従」「対米隷属」といった批判も、また多い。
 新進党前政審会長・愛知和男は「アメリカと『イコール・パートナー』として妥協点を見いだすという感じではない。言われたらハイという感じだ」という。
 民主党代表・菅直人も「あれほど自立社会をめざすと言いながら、外交・防衛政策では自主的・自立的判断を持っていない。アメリカが提示した絵に百%乗っている」と批判的だ。
 これに対して、小沢は「『従米』というなら、じゃあ日本が平和に豊かに生きていくには、ほかにどんな方法があるのか」と反論するが、議論はなかなかかみ合わない。
 安保問題では、日米安保の堅持と共に、「国連決議」を前提にして軍事面での国際貢献に道を開こうとしている点が特色だ。
 今月十三日に新進党本部で元米国務長官キッシンジャーと対談した際、小沢はこう説明した。
 「日本国憲法国連憲章の理想は同じだ。平和が侵された場合にどうするかということを、憲法は具体的には言っていないが、湾岸戦争のような場合でも、日本が主権国家として行動するのではなく、国連のお墨付きがあれば、日本は参加できる」
 自衛隊の海外派遣には、政府が憲法解釈で禁じている集団的自衛権の行使問題を避けて通れない。
 小沢は、一時は集団的自衛権行使を認める方向に傾いたが、今年一月に決めた新進党の安保政策では結局、認めないことに落ち着いた。党内に集団的自衛権行使の容認に反対する声が根強いためで、「ぶれない」が定評の小沢も、この点はかなり揺れが目立つ。
 アメリカは小沢をどう見ているのか。
 「戦略的なビジョンを持ち、決断力もある。しかし、戦術面で過ちをおかしたため、期待する人はアメリカでも少なくなっている。今回の沖縄問題への対応をみて、小沢氏が橋本首相の改革を刺激する役割を持ち得るという点に期待を持つ人が増えてきた。橋本、小沢両氏が競争しつつ補完し合うというのが、アメリカにとって最も好ましいパターンだ」
 米ブルッキングス研究所上級研究員・マイク・モチヅキの分析だ。
 日本の外交・安保政策は戦後一貫して「対米重視」「国連重視」を基軸にしてきたが、小沢は、さらに一歩踏み込んで、「大変ストレートに、率直に表現し、ためらわず行動している」(元首相・宮沢喜一)。そこに、「敗戦や占領されたことからくる複雑なコンプレックスを僕らは持っているが、彼は持ってない」(宮沢)といった感覚の違いを感じる人も多い。
 日米間では、日本周辺有事を想定した「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)の見直し作業が大詰めの段階を迎えている。「アメリカの普通の政治家の国防感覚を持った人」(慶応大教授・小林節)と評される小沢が、特措法改正に続き、ガイドライン見直しをめぐる政局で、どう出るか。小沢流の安保・外交政策は依然として政界再編の対立軸の一つである。(敬称略)
           ◇
       〈小沢氏の安保論の推移〉
【国連軍】
【93年5月】自衛隊を国連待機軍として国連に提供し、その平和活動に参加することは、憲法前文の理念、第九条の解釈上可能であるだけでなく、むしろ、それを実践することになる。(「日本改造計画」)
【96年12月】国連安保理、総会で決議が行われた場合、決議を尊重し、国連の平和維持活動に積極的に参加する。侵略に対する平和回復活動等の参加は、対応、手続きを事前に国会決議等により国民の意思を問うことを安全保障基本法に定める。(新進党基本政策構想)
集団的自衛権
【96年4月】(党憲法問題調査会分科会座長の見解では)憲法の理念も国連の理念もほとんど同じで、この解釈に従って、憲法も解釈すべきとしている。国連は集団的自衛権も認めている。(この見解は)非常に明解だ。(テレビ朝日サンデープロジェクト」)
【96年12月】集団的自衛権の行使は認めず、個別的自衛権の拡大も行わない。(新進党基本政策構想)