祖父から聞いた戦時の思い出話 サクと呼ばれた女の子の話

むかし、父方の祖父からこんな話を聞いたことがある。
祖父もつらい思い出なのか、一度詳しく話してくれただけで、二度とは聞いたことがなかった気がする。

戦時中、祖父は、中国戦線で、自動車部隊の補給部隊に配属されていたそうだ。
途中、一ヶ月だけ家に帰れたそうだが、すぐにまた赤紙が来て、結局七年間ずっと戦地に行っていたらしい。
とはいえ、直接の最前線には出ずに済んだため、祖父はとうとうひとりも撃たず殺さずに済んだそうだし、南方戦線などに比べればずいぶんマシな戦地暮らしだったようである。

ただ、そんな中、こんなかわいそうな話があったという。

当時、中国では、親にはぐれたり、親が死んでさまよっている孤児が山のようにいたそうだ。
そんな中、まだ小さな女の子がひとり、どういうわけか、祖父のいる部隊にくっついて来て、みんなで育てることになったらしい。

他に行き場も身寄りもなかったのだろう。
ずっと祖父の部隊と行動を共にしていたそうだ。

たしか、五年の間、一緒にいたと聞いた記憶がある。

「サク」とみんなから呼ばれていたそうで、日本語もあとからぺらぺらしゃべれるようになり、大人顔負けで機関銃など撃てるようになったそうだ。

みんな、おおむねかわいがっていて、中には将来自分が引き取って育てようと思っていた者もいたそうだが、

中には心無い人もいて、「お前はいつでも殺せるんだからな」と、何か機嫌が悪い時にその女の子に怒鳴るような兵隊もいたらしい。
そんなこと言わなければいいのにと、祖父は思ったそうだが、おそらく若い単なる一兵卒の祖父にはどうしようもないことも多かったのだろう。

はじめは、何もわからない子どもだったのが、だんだんと大きくなって、少しは自分の置かれている状況がわかってきたのだろうか。

ある日突然、その女の子が姿を消したという。

ずっと部隊と行動を共にしていたので、軍事上の機密を敵にもらすかもしれないというので、見つけ次第射殺しろという命令が出て、部隊のみんなで探したそうだ。

すると、空き家になっている民家の中で、練炭を燃やして、窒息死している姿が発見されたという。
おそらく自殺だったろうとのことだった。

祖父は哀れでならなかったような感じで話していたが、やっぱりつらい思い出なのだろう。
一回詳しく話してくれただけで、そのあとは、戦地での楽しかった思い出話や苦労話や、他の話は繰り返し話してくれることはあったのに、その話だけは二度と聞いたことがなかった。

なんとも可哀想な話で、いたたまれない気がする。

そういう話を聞くと、日中戦争というのは、やっぱり中国にずいぶんひどいことをしたものだなあと思う。

日中関係は、未だにいろいろギクシャクすることも多いが、過去にあった戦争を思えば、日本の方からいろいろと友好に努力をしなければいけないのかもしれない。
政府間は難しいことがあるとしても、少なくとも個々人は、日中相互の和解と平和に努力すべきなのだろう。

祖父は、終戦の時にはすでに日本に戻っていて、熊本の地で終戦を迎えたらしいけれど、

それほど甚大な被害に遭いながら、敗戦後、ソビエトと違って、日本人の民間人や兵卒に対して、基本的には暴行を加えず、速やかに本国に帰れるように計らった中国の政府(当時は国民党政府だったろうけれど)の恩義は、ソビエトの日本の民間人や兵卒に加えた暴虐と比較した時、やはり大きいものだったと思う。

隣国であれば、いろんないさかいや摩擦はそのつどあるだろうけれど、とりあえず、二度と「サク」ちゃんのような子を出さないことを、日中間で努力していくしかなかろう。

月並みな言葉だが、戦争ほど愚かしく悲惨なことはないし、平和ほど尊いものはない。
そんなことを思う。