不殺生ということについて 祖父の思い出から

うちの祖父は戦時中、七年間も中国に兵隊として駆り出されていたそうである。


と言っても、自動車の免許を持っていたため、後方の補給部隊に配属となり、基本的にはあまり前線に行くことはなかったそうだ。


そのおかげか、一度も祖父は人を殺さずに済んだそうである。


たまたま運が良かったということなのかもしれない。
歎異抄に「さるべき業縁のもよおせば」とあるように、いくら殺したくないと思っても、めぐりあわせによっては多くの人を殺さなくてはならなかった兵隊も当時は多かったと思う。


ただ、どうも祖父は無用な殺生をとても嫌っていたようである。
銃を撃つのも嫌いで、「一度撃つと手入れが大変だったから」と祖父は言っていたが、よく遠くの敵の方に銃を打つような命令が出ても適当にごまかして、それでも撃っていないことがばれれば大事になるので、近くに落ちている薬莢を拾って撃ったことにしていたそうである。


もちろん、見方によっては、うちの祖父みたいな兵隊はふまじめなけしからん兵隊ということになるのかもしれない。
が、私は、さほど差し迫った状態でなかったということもあったのだろうけれど、適当に命令を聞き流して、さほど逆らうわけではないけれど、結局ほとんど銃を撃つことすらせず、それを「手入れがめんどくさい」と言って、力みもせずにやってのけていた祖父は、案外と偉い人だったのかもなぁとこの頃思う。


そういえば、うちの祖母は、一度、田舎のあぜ道を歩いていたら、アメリカの戦闘機が飛んで来て、コックピットのパイロットと目があったことがあったそうだ。
祖母はいたってのんびりしたのんきな性格で、その話ものんきに話していたが、これは本当はかなり危機的な状況だったはずで、しばしば田舎のあぜ道で米軍機の機銃掃射で撃ち殺された人がいたという話はよく聴くことである。


おそらく、この米軍機も、はじめは祖母を撃とうと思って近づいてきたのではないかと思う。
ただ、あまりにも無防備にのどかに見上げる祖母を見て、そのパイロットも仏心が出たのか、機銃の引き金を引かずにそのまま立ち去ってくれたのだろう。


その時、祖母が機銃掃射で死んでいれば、私の父も私もこの世にはその後存在しなかったわけで、そのパイロットの不殺生の選択のおかげで、今私はここにいると言えるのかもしれない。


そして、この頃、もうひとつ感じるのは、たぶん、祖父が中国の戦場で無用な殺生を嫌って人を殺さなかったことが、まわりまわって内地にいる祖母が殺されずに済んだことにどこかでつながっていたような気がするということである。
因果の糸車というのは不思議なもので、一概にこれがこうとは言えないし、そんなことは関係ないと考える方が合理的で現実的かもしれない。
しかし、私はこの頃、どうもこの世というのは不思議なもので、案外と見えないところでそんな風につながっているのではないかと思う。


憲法九条の是非についてはいろんな議論があるが、憲法の是非や、あるいは完全非武装が本当に可能かどうかということはとりあえず置いておいて、たぶん敗戦直後の日本の庶民の大半の素朴な感情は、難しいことはわからないが、もう人を殺したり殺されたりするのは嫌だ、ということだったのだろうと思う。
「不殺生」の国にしたい、ということだったのだと思う。


改憲・護憲の是非は別にして、私はその「不殺生」への思いは、基本的にとても大事な尊いものだったと思うし、たぶんそれがあったから、戦後の日本はまずまず平和で良い国になってきたのだと思う。


十二月八日や八月十五日や、節目節目に思うべきことは、あまり難しいことをとやかく難しく考えすぎることより、そうしたことなんじゃないだろうかとこの頃思う。