石橋湛山 「哲学的日本を建設すべし」

石橋湛山「哲学的日本を建設すべし」

(明治四十五年六月号『東洋時論』「社論」)

     一、

 近頃あるところにこういう事があった。それはある人がある思想上の事件のために法廷に立つのやむなきに至ったが、不幸第一審において有罪の宣告を受けた。しかしこの人は固くその宣告の不当なるを信じておったがゆえに、さらにこれを控訴するの手続きに出でんとしたが、弁護人や知人から、それはかえって不利である、軽微の処罰に済んだのを幸に、ここで服罪しておく方がよいと奨められて、ついにその言葉に委せて控訴することを断念したというのである。これはただこれだけの話として聞いてしまえば、それまでであるが、吾輩はここに決して見のがし難いしかしてはなはだ寒心すべきわが国現代人心の傾向が現れておると思う。英国のジョン・ハンプデンはわずか数シリングの金子に付着せる自己の権利を主張するために、数年にわたって、政府を相手取って法廷に争った。しかして訴訟の結果は彼の不利に終わったといえども、しかもその当代の英国の民心に与えた影響はいかに偉大なるものがあったか。今日の大英国の基礎は実にハンプデンの硬骨によってその第一が置かれたといっても、決して過言というべからざるものがある。それその金子はわずか数シリングのことである。もしハンプデンにして、かばかりの金子にとやかく争うておるのは、かえって損である、愚であるとして、前に吾輩が挙げたるわが国のある人の話の如く、泣き寝入りに服してしまえば、ただそれまでの事であったのであるが、しかし彼はさすがに英国の紳士であった。国士としての自覚があった。金子はわずかの事であっても、そこに存するわが国民としての権利の軽んずべからざることを十分に知っておった。しかして知ってこれを行わざるは国士の恥辱であるということを十分に意識しておった。吾輩はこのハンプデンの物語と、かのわが国のある人の話とを比較して、実に無限の感慨に打たれざるを得ない。

     二、
  
 けだし吾輩が今挙げたるわが国のある人の訴訟問題というものの根底に横たわれる思想はいかなるものであるかというに、浅薄弱小なる打算主義である。吾輩はあえてこれを「浅薄弱小なる」という。何となれば、たとえ打算主義であっても、それがもし深刻強大なる打算主義であるならば、そは決してかくの如き泣き寝入りというが如きことに終わるべからざるものであるからである。実に我が国今日の人心に深く深く食い入っておる病弊は、世人がしばしば言う如く、そが利己的になったことでも、打算的になったことでも、ないし不義不善に陥っておることでもない。吾輩はむしろ今日の我が国には、余りに利他的の人の多く、余りに非打算的の人の多く、余りに義人善人の多いことに苦しみこそすれ、決してこれらのものが少ないとは思わない。しからば吾輩の認めて以て我が国民の通弊となす処のものは何か。曰く、今述べたる利己に付けても利他に付けてもその他何事に付けても、「浅薄弱小」ということである。換言すれば「我」というものを忘れておることである。確信のないことである。膊力の足りないことである。右顧左眄することである。
 例えばこれをわが外交に見よ。わが外交家は口を開けば常に言う、我に誠意ありと。しかしながら彼らのいういわゆる誠意とはそもそもいかなるものであるか。吾輩はそこにただ諸外国に対する気兼気苦労よりほかに何者をも認むることは出来ない。また例えばこれを我が政党政治家に見よ。彼ら口を開けば則ち言う、我ら虚心坦懐ただ国政を思うのみと。しかしながら彼らのいういわゆる虚心坦懐とはそもそもいかなるものであるか。吾輩はそこにただ御都合主義と狎れ合いと無定見とのほかに何ものを認むることは出来ない。また例えばこれを我が文芸家に見よ。彼ら口を開けば則ち言う、我ら真を写すと。しかしながら彼らのいういわゆる真とはそもそもいかなるものであるか。吾輩はそこに意気地なき繰言か楽屋落ちのほかに何者をも認むることは出来ない。かくの如く数え来ればほとんど際限もないが、しかしこれを要するに、彼らは皆善人であるのである。義人であるのである。善人ではあり、義人ではあるが、ただ不幸にして彼らの自己なるものが浅薄弱小であるのである。その自己が浅薄弱小であるが故に、彼らは他に気兼気苦労し、狎れ合いに事を遂げんとし、意気地なき繰言を繰り返しておるのである。而して断々乎として自己を主張し、自己の権利を要求することができないのである。

      三、

 しかしながらここに問題となって来ることは、しからば我が現代の人心は何故にかくの如く浅薄弱小、確信なく、力なきに至ったかということである。吾輩はこれに対して直ちにこう答える。曰く、哲学がないからである。言い換えれば自己の立場についての徹底せる智見が彼らに欠けておるが故であると。例えばこれを吾輩が前に挙げた外交家の例に取って見よ。彼らには日本の立場がわからないのである。日本の現在および将来の運命を決する第一義はどこにあるか。徹底した目安がついておらないのである。徹底した目安がない。ここにおいてか彼らはやむをえず、その時々の日和を見、その時々の他人の眼色を窺って、行動するよりほかに道はないのである。また例えば前に挙げた訴訟の問題の如き、もしその人に、またその人の周囲に居た弁護人や知人に、自己存在の第一義について徹底した智見があって、真に自己が生きるためには、第一に何を主張しなければならぬかということがわかっておったならば、決してあのような処置は取らなかったはずである。けだし徹底せる智見は力である。徹底せる智見なきが故に、主張すべき自己がわからず、主張すべき自己がわからぬ故に、即ちその我は弱小浅薄非力無確信となるのである。


      四、

 顧みるにわが邦は今や内外種々なる点において容易ならぬ難局に立っておる。満州の問題は如何、対支那の問題は如何、資本家対労働者の問題は如何、いわゆる高等游民の問題は如何、国民道徳の問題は如何。かくの如く数え来れば、一国もその解決を猶予しておられない大問題難問題は、国民の四囲内外にほとんど身動きも出来ないほど積もっておる。そもそもこれを吾人は如何にすべきか。曰く、ただ吾輩が前説せしが如き強力鋭利なる大智見の刀を以て、片端からこの乱麻を断って行くのみである。しかるに近来わが為政家はもちろん、思想家、教育家、ないし一般国民のこれらの問題に対する態度を観るに、甲の問題が起れば蒼惶として甲に走り、乙の問題が起ればまた蒼惶として乙に走るという如く、少しもわが根本的の立場から定めて、これに照らして、総ての問題に徹底的解決を与うるということをしない。あたかも彼らのなせる処は、下手の碁打が一小局部にのみその注意を奪われて、全局に眼を配ることが出来ず、いたずらに奔命に疲れて、ついには時局を収拾すべからざるに至らしむるようなものである。吾輩は切に我が国の国民に勧告する。卿らは宜しくまず哲学を持てよ、自己の立場に対する徹底的智見を立てよ、而してこの徹底的の智見を以て一切の問題に対する覚悟をせよと。即ち言を換えてこれをいうならば、哲学的日本を建設せよというのである。哲学は最も徹底的に自己を明らかにする者である。何をおいてもまず自己を考える。而してその明瞭にせられたる自己から出発して、新しき日本を建設する、これ実に我が邦目下の急務であると思う。