他作自受の問題について 資料


「他作自受の難」と親鸞教学
 河智義邦

「他作自受の難」とは、直接的狭義的には、円宣著『教行信証破壊論』(原題『挫僻打磨編』)における所謂他力回向論は他作自受で自作自受(自業自得)を原則とする仏教の因果論とは相違するとの非難を指す。間接的広義的には、他力往生義など有相的表現の色濃い真宗救済論の構造全体に対してこれを非仏教的と批判する象徴的名称といえる。この論駁に対して、法蔵は発願修行し自らその果報を受け既に阿弥陀仏と成っている(自作自受)仏は正覚の全徳である名号を衆生に回向する(回自向他)衆生はその果号を領受することを因として往生の果を得る「自作自受」、といった形式的な回答がなされる。概して神話的実体的な経典理解に基づいて訓詁注釈学的な会通が全盛の江戸期の教学様相の中では、阿弥陀仏浄土の実在性の問題などは考慮されず、この回答は一定の有効性があったといえる。本来縁起説を原理とする仏教において「自己」とは、その自性が否定され仮有の存在であり他との関係の中で自業自得していく存在といえる。さらに(他因外道とは区別して)他作自受は大乗仏教の主題である回向義(利他)を表し、これを批判することは大乗そのものを「破壊」する行為といえる。しかしかかる形式的解釈・回答は、仏と衆生の間に何か超越実体的な物体が授受されるといった呪術的思考(救いを一種の客観的なメカニズムのように思考)上に成立しており、真宗信心を、遥か昔に成就している阿弥陀仏の本願名号の原理を後から追認し体験するという神話信仰として理解される危険性がある。親鸞の救済論は、本願力回向を基調としていて明らかに他作自受的構造となっている。これが難を受け様々な誤解を生むのは、実体的な解釈に陥り、主体的実存的に「若不生者不取正覚」の誓願と関わっていく姿勢が欠落する時で、これによって名号による救いが呪術的神話的な内容になってしまう。(親鸞は「他」即ち阿弥陀仏浄土を来世実体的な存在としてではなく、その本質を「光明」「智慧のかたち」と非実体的なものと捉えている)

このように「他作自受の難」は、親鸞教学が抱える根本的な問題を象徴する名称といえるが、それでは真宗仏道における「自業自得」の問題はいかに理解すべきか、新たな救済論の「形式」を試考してみたい。自己存在とは無関係に、既に救いの因が遥か昔に成立している、ということからその救済論の説明がスタートしているところに問題の所在がある。真宗仏道における「大前提」は、「生死出づべき道」を求めるという「求道心」にあり、これこそ形式的にも最初に示されるべき事態と考える。この求道心こそ真宗仏道における主体であり「自業」の内実といえる。そこに大経の内容(や他者)との主体的な関わりが生起し、求道における決定的な意義をもつ教説・影響となって行人は仏道を成就していく(自得)、即ち往生の道程を歩んでいくのである。親鸞は「聞法」を重視し、「一切有情、智慧を習ひ学びて、無上菩提にいたらん…念仏を信ずるこころを得しむるなり」といい、衆生の信心は如来智慧を聞き習い学ぶことによって成立し、無上菩提に至ることができると主張している。勿論これらの主張も他力回向的理解によって、衆生の成仏の行為は既に前もって如来によってはからわれているという親鸞特有の思想表現形態は取られているが、それを衆生の側から能動的に表現するならば、衆生如来智慧を習い学ぶという行為があって初めて衆生の心中に信心が開発するといえる。こうした視点(主体的姿勢)が欠落すると、浄土真宗の教義そのものが神話的に理解され、ひいては非仏教的なものと烙印される危険が生じる。そしてかかる「生死出づべき道」を求めるという求道心について、享受している世界観や価値観の違う鎌倉時代親鸞と、現代の我々が時代を越えてどういった仕方で、その問題意識を共有するかは大きな課題といえよう。

(「宗教研究」75巻−4 226-227頁)



(参考)

親鸞教義の研究 村上速水著 (永田文昌堂)


第五節 因果律の問題と、約末の回向義について

  一 他因自果の批判について

 真宗における他力回向義は、仏教の因果律に背反するものではないかという疑問は、古くして然も常に問われる問題である。あながち他力回向論に限らず、三種回向の中の衆生回向についても同様の批判があるわけであるが、就中衆生往生の一切の行業をすべて如来より回向されると説く真宗に於いては、この批判は最も痛切といわなければならない。
 この問題については、すでに本章第一節の中の「回向成立の基盤について」の条下で触れた面もあり、また近くは神子上恵龍氏が詳細に論じておられるが(1)、所見を異にする面もあるので、私見を述べたいと思う。
 まず第一には、他力回向義は他因自果(仏よりいえば自因他果)を許すものではないかという批判がある。これについて親鸞にはその直接の解明というようなものは見当たらないが、しかし凡夫の他力往生が厳然たる因果の理法に則って遂行せられるものであり、決してこれを無視されるものでないことは、すでに引用した
 若行若信、無有一事非阿弥陀如来清浄願心之所回向成就。非無因他因有也。可知(信本十六丁―真聖全二・五八)
の文、あるいは
 若因若果、無有一事非阿弥陀如来清浄願心之所回向成就。因浄故、果亦浄也。応知(証巻五丁―真聖全二・一〇六)
といわれる文などによって極めて明らかである。この二つの文の終りの句は、もと『論註』の浄入願心章(下二十五丁―真聖全一・三三六)に用いられた言葉であるが、殊に初めの「非無因他因有也」の句は、もともと「無因他因の有にはあらざるなり」と訓むべきであって、曇鸞の意では、外道を無因外道、他因外道の二種とし、今いうところはそのいずれでもないことを顕すものである。したがって親鸞訓点はそれと異なっており、一往その所顕に小異はあるが、曇鸞の意志を承けつがれることには異論はない。では何故に無因有ではないのか。『高僧和讃』に「願力成就の報土には、自力の心行いたらねば」という。衆生の自力の心行は願力成就の報土に往生する因ではない。自力は無効である。自力無効にして往生するといえば無因有果ではないか、無因有の難がここに生まれるわけである。しかるにかくの如き無善造悪の凡夫のために、法蔵菩薩の思惟と修行があり、名号法が成就されたのである。その成就せられた法をもって往生の因とするのであるから、無因有果ではない。しからば他因自果の邪計ではないかという疑問が起る。けれども親鸞は「他因有にも非ず」という。なぜであるか。他力の往生は衆生がその名号法を一念に領受し、一たび自己の所有として往生の果を得るからである。
 ここに如来によって修せられた衆生往生の因果が、名号法として成就せられたことの重要な意義がある。法蔵菩薩はその願において自ら正覚の覚体を成ずることを願われるとともに、果号の成就を誓われるのであるが、それは仏体は衆生の認識の過境であり、そのままでは衆生の救済は果されないから、衆生が念持することのできる名号法の成就を誓われるのである。それと共に重要なことは、仏体が仏体にとどまっている限りは、回向は成立しないからである。このことは次章の「名号の本質に関する考察」に詳説するが、最初に回向の意義を説明したところで述べたように、願と回向とを区別するものは所回向物の有無による。もし法蔵の願心のみであったならば、衆生はついにその功徳を自己の所有とすることはできないであろう。願と行とが具足して一つの法を成就するとき、初めて回向は成立する。(2) 何となれば願はその人に即自的なものであって、そのままではこれを受け取ることが出来ないからである。もし法蔵の所作が直ちに我が所有となるのであれば、それは明らかに因果律に背き、他因自果の非難を蒙らねばならぬであろう。しかし即自的な菩薩の願行は、対自的な名号法として成就せられ、これを衆生に回施せられるのである。衆生はこれを聞信の一念に自己の所有とし、それによって往生を得るのであるから自因自果であり、他因自果の難はあたらない。またもし法蔵菩薩の所作が直ちにわが所有となるのであれば、法蔵菩薩が正覚を成就せられた十劫の古に、われらもまた往生しおわっていなければならぬ道理である。しかるに未だに流転をつづける理由は、菩薩の願行が直ちにわが願行とはならぬからである。真宗において、名号正定業を語りつつも、正因は必ず信心において談ずることは、まさにこの機微を顕せるものに外ならない。
 されば他力往生とは、衆生が名号を領受して、「南無阿弥陀仏の主」(3)となり、その因によって往生を得るのであって、この因果関係を具体的に明かしたものこそ、実に「行巻」の両重因縁釈である。


  二 他作自受の批判について

 真宗における他力往生が、無因・他因有でないことは、前に述べるところで明らかにされたと思うが、しかし更に厳密に考えれば、法蔵菩薩の造作はあくまで法蔵菩薩の造作であって、名号を聞信することによって自己の所有とするといってみても、依然として衆生が修行したということにはならない。その限りにおいて、なお他作自受の難を免れないのではないかという疑問が残る。慧遠は『大乗義章』の中に、「仏法には自作して他人の報を受くること有ることなく、亦他作して自己の果を受くることなし」(4) と説いて、業道の正理は自作自受であり、他作自受、自作他受のあるべからざることを教えている。果してそうであれば真宗の他力往生はこの難を甘受せねばならないのであろうか。
 この問題は古くから真宗学界に提起され議論せられたものであって、先哲の中にもこの問題に関心を寄せた人は少なくないが、その中でも特にこの問題に深い注意をはらったのは慧空であった。彼は十七条の疑問をかかげて、当時の宗学界に解答を求めたが、その第四条に他作回向の問題をあげている。
  稽疑曰。若至心信楽之行人談其益。則願行彼励於菩薩所感果自成於行者所。即是仏法不許之他作自受也。
  若言願力不思議者仏願於無理上而所建立乎。其不可思議之体何違因果之大道耶。若言自他平等之性
  海者亦何曰能所。異哉。他財自富甚誣罔耳。今聞不薫発之旨而直得大功徳也。急言。(5) と。そのいうところ、まこと肯綮に当たっている。
 しかるに先に「回向成立の様相について」述べた所で、縁起に理と事との二面があり、事の面に立脚して他力助縁を主張するものと、更にすすんで理の面から、同一性をもって正因となることを認めるものとの二説があることを説いたが、殊に新羅の元暁の如きは正因説を信じ、その深い思索と体験から、形式的な他作自受の如きはこれを超えることを述べている。すなわちその著『遊心安楽道』の終りに
  悔哉。罪業自造。苦果影追。痛哉。独因独厄。無人救護。自非同体大悲。弘済秘術。誰能遠開幽鍵。昇華台。
  雖無他作自受の理。而縁起難思之力。則知以遇呪沙即有縁。若不被沙。何論脱期。(大正四七・一一九c)
という。ここに「他作自受の理なしと雖も、而も縁起難思の力あり」といっているが、彼は支那華厳宗のすぐれた学匠であったから、深く事々無礙の法界縁起に徹し、それを論理的根拠として、あえて他作自受をも肯定する言葉を述べたのであろう。わが鎌倉時代華厳宗明恵も、『土砂勧信記』の中にこの『遊心安楽道』を引いて、しきりに縁起難思の力を強調しているといわれる。
 これら諸師の用いている他作自受という言葉は、他因自果の意味をも含めたもので、他因自果と他作自受との言葉を区別したものではないが、六即円融・十玄縁起の極理に参徹した体験の境地において言い得られるものであり、能所泯亡の立場から言われることである。したがってこのような論証は、慧空の提起した「若し自他平等の性海を言わば、亦何ぞ能所を言うや」という疑問の中におさめられるものであって、今の他力回向義に対する他作自受の難に対しては、何ら解答せられていないことになる。

 けれどもこの「何ぞ能所を言うや」という質疑に対しては、慧空の師円智は、『宗旨疑問指帰略答』を書いてこれに答えている。即ち
  我法蔵比丘。発願之時。居於聖位。自証本性。若約自性。一如平等故。泯於能所。若約衆生。背覚合
  塵故。暗於自性。菩薩憐彼迷者。自代而発大願。故経云通達諸法性乃至必成如是刹。(6)
といい、法蔵比丘の自性に約すれば性海平等、衆生に約すれば能所厳然と対立する、という。
 さてこの慧空の十七条の質疑を中心として展開された論議の中には、その他に龍渓(7)などの釈明もあり、或いはそれらの解答に対する慧空自身の批判もあってさらに続くのであるが、しかしそれらの問答往復の内容を仔細に見れば、実は前節に述べたところの他因自果の問題に対する解明であって、他作自受という言葉を用いてはいるが、今ここで他因自果の語と区別して論じようとしている他作自受の言葉とは、内容的に隔たりがある。
 そこで今は立場をかえて、この難そのものの意味を一層仔細に検討してみたいと思う。恐らく難者がこの難を発するに最もふさわしい文としては、『安心決定鈔』の
  まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし、行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、
  感果はわれらがところに成ず。(本十一丁―真聖全三・六二〇)
という文があげられる。すならち仏作仏行によって衆生が往生を得ることは明らかに他作自受ではないかというのである。ところで他作自受はいうまでもなく自作自受に対する言葉であり、真宗は他力救済教である限り、明らかに自作自受ということはできない。しかし自作自受とはいわないけれども、難者がいうが如き他作自受でもないことが理解されなければならない。というのは、自作自受とは業因感果の理についていうので、作とは善悪の業因を作ること、受とはその果報受けることである。したがってこれに相対する他作自受とは、他が善悪の業を作って、しかもその人自身は果報をうけず、自がその果報を受けるということを意味する。
 この定義に照らして真宗の他力往生義を考えてみると、もし法蔵因位における善業の造作が法蔵菩薩自身の上には報われず、直ちに衆生の果報として現われて、衆生が往生の果を開くのであったならば、これは明らかに他作自受である。しかし真宗義はそうではない。法蔵菩薩はその願行によって自ら正覚の果体を成ずるのである。したがって自作自受である。そしてその自作自受した正覚の全体を名号として衆生に回向されるのであり、衆生はこの回向によって名号を領受し、それを往生の因として往生の果を得るのである。決して法蔵菩薩の造作修行が直接に衆生の上に果として報われるのではない。前に引いた『安心決定鈔』の文と雖も、法蔵自身の正覚を認めないで、直ちに衆生が感果するというのではない。したがって『大乗義章』にいうところの他作自受は、真宗の他力往生義に該当するものでないといわねばならない。されば鎮西の円宣(8)が、真宗義を攻撃して、他作自受の難を放っているが、この間の論理を弁えない皮相な見解という外はない。
 煩をいとわず、重ねてこの間の事情を要約するならば、真宗に於ける他力往生義は、(一)法蔵が発願修行して自ら阿弥陀仏という覚体を成ずること(自作自受)、(二)弥陀は正覚の全体を施名して衆生に回向する(回自向他)、(三)衆生はその果号を領受して、信心の因をもって往生の果を得る(自因自果)、という三つの段階を経て完うされるのである。しかるに他作自受の難を加える人は、法蔵菩薩の発願修行と衆生の往生とを直ちに結び付けて論じているのであるから、批判そのものが論理的欠陥を含んでいるといわなければならないので、『大乗義章』にとくところの他作自受とは、内容的に相違のあることが確認されなければならない。
 されば真宗の他力往生義は他作自受の難をうけるべき性質のものでなく、それまでも自作自受に非ざるがゆえにいわれるならば、合理的他作自受とでもいうべきであろうか。


(1)神子上恵龍著『真宗学の根本問題』十六頁以下参照
(2)多田鼎著『回向論』参照
(3)『御一代記聞書』(真聖全三・五九一)に「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。南無阿弥陀仏の主に成といふは、信心をうることなり」
(4)『大乗義章』巻九(大正四四・六三六c)
(5)『浄土疑問解』(真全五五・二七一)
(6)『宗旨疑問指帰略答』(真全五五・二二九)
(7)龍渓は『浄土疑問釈答』一巻を著して釈明に努めた。
(8)円宣『挫僻打磨編』(祐晃訳『教行信証破壊論』六−七頁)