ミルトン・スタインバーグ 「ユダヤ教の考え方」

ユダヤ教の考えかた―その宗教観と世界観

ユダヤ教の考えかた―その宗教観と世界観

ユダヤ教について、とてもわかりやすく、その考え方やエッセンスを説き明かしており、すばらしい本だった。


読んで感銘を受けたのは、ユダヤ教の合理性と、寛容の精神である。
そのことは、非常に新鮮だった。


日本においては、しばしば、ユダヤ教は自民族中心主義の狭い考え方で、それをキリスト教が普遍的なものにしたというステレオタイプな記述が教科書等でなされることがある。


しかし、この本を読むと、そのようなまとめ方には非常に疑問が持たれる。

というのは、ユダヤ教は、どのような宗教であれ、その人が正しく生きていれば、この世でもあの世でも恵みを受ける、と考えるからである。
この本に、そのことが明確に書かれていて、とても感銘を受けた。
一方、キリスト教は、通常、キリストを信じる者だけが救われると説く。


たとえば、仏教徒で非常に正しく生きた場合(モーゼの十戒と仏教の五戒はかなり共通している)、ユダヤ教の観点から言えばその人はこの世でもあの世でも恵みを受けるが、キリスト教の場合はそれでも救われない、という結論になる。


これを考えれば、ユダヤ教の方が、よほど開かれて寛容な面があるような気がしてきた。


ユダヤ教は、他宗教の人に基本的に布教せず、しかもユダヤ教に改宗を願い出てきた場合、一度目は思いとどまるように勧告し、そのうえでどうしても本人の意思が堅い場合のみ、改宗を受け入れるという。
それは、それぞれの民族や宗教において、あるがままに、その人が神と世界に仕えれば、そのことによってその人はそのままで恵みを受けると考えるからだそうだ。


これらのことを考えれば、ユダヤ教は別に閉鎖的でも自民族中心主義でもなんでもない気がする。


また、ユダヤ教は、これといって固定的な信条を定めず、神や正義や善についても、さまざまな考え方があって良いという考え方だそうである。
むしろ、実際に善や正義を行うことを説いており、実際に善や正義を行う生き方をしていれば、あとは神や善についてどのような考え方を持っても自由である、という考え方をとるそうである。
これも、非常に実際的な、そして多様性を認める考え方だと思う。


また、生きることは善なるものだ、という考え方がユダヤ教の根底にあるというところも、非常に人生を肯定する明るい考え方だとこの本を読んでいて思った。
肉体や欲望を否定する禁欲主義には反対し、むしろ律法に基づいた上で、人間の人生を楽しみ、欲求や欲望も良く導き用いることを勧めるというのも、現実的で人間に対して肯定的な考え方だと思われた。


また、ユダヤ教においても、隣人への愛が義務づけられており、他の人における尊敬と希望と自由の権利を阻害してはならず、隣人の偉大なところを探し、祝福することが教えられているということも、大変素晴らしいと思った。
もともと、律法において隣人を愛することは規定されているそうである。

また、神の御心を無にすることが罪だという、罪に関するというまとめがこの本に説かれていて、これもなるほどと思った。


罪に関しては、過ちが引き起こす結果を緩和するように努力することと、罪の原因・性質結果を理解することと、そのうえで明るく自信をもって前に進むことが重視されるというのも、非常に現実的で知恵のある態度だと思った。


また、イエス・キリストキリスト教についてユダヤ教がどう考えるかということもこの本では述べられており、非常に興味深かった。
この本によれば、イエスが説いた教えは、完全に旧約聖書や当時のユダヤ教の文献の中にも一致する内容を見つけられるものだそうで、別に独創的なものではい、という。
ただし、その中の要点をはっきりと再構成し目に見える形にする才能と、たとえ話において、そして何よりもその実践において、本当にすばらしい本物のユダヤ教徒だったと述べる。
しかし、現世の生活や社会性を無視し、あまりにも彼岸主義的であることや、自分をメシアと思っていたこと、またギリシャやローマの哲学や文化に無関心で素朴ではあってもあまり高い知性を感じられないこと、などをかなり率直に述べてあった。
さらに、イエス自身に対してはユダヤ教の教えに一致する教えを説いたものと言えるが、パウロの教えはユダヤ教と異なっており、ユダヤ教では受け入れられないことを述べていた。
これらは、キリスト教の立場からはさらにいろんな意見があるだろうけれど、非常に興味深い論点だった。


ユダヤ教においては、人間は神の性質を反映するもの、神の似姿であり、すべての人が神の子であって、特定の人間だけがそうだというわけではない、という考え方をとるそうである。
そこにおいて、パウロがイエスのみが神の子であり、その十字架の贖いによってのみ救われるという考え方をとるのと、大きな相違点があるそうである。


この本の中の以下の一節は、とても印象的だった。


「「人間である」ということは、「知る」ということである。
そして人間が知り得る事柄の中でおそらく最も素晴らしいことは、彼が人間であるといううことだ。
ラビ・アキバは「人間とはかけがえのないものだ。なぜなら人間は神にかたどって創造されたからだ。しかし、人間自身が神にかたどって創られたことを知らされる(神の)恵みは大いなるかな」と語った。
神の要素が人間に宿っているということは、次の二つのことを意味している。
まず人間は、自分を尊び、自分の考えを大切に守り、神の火花が内に燃えている者にふさわしく自尊心をもって考え行動する義務がある。
それから、人間は自分の個性を表現する義務がある。
なぜなら、人間は神の似像をもっているが、それを一人一人自分にしかない仕方でもっているからだ。
世の中の誰一人として同じ人間はいない。
それだから、人はその個性を発見し発展させる義務があるのだ。
さもなければ、神の性質のある側面が、永久に表に出ず、成就されないままになってしまうだろう。」
(116〜117頁)


非常に傾聴に値する、すばらしい言葉だと思う。


ユダヤ教の教師のことをラビというが、歴代のラビたちは、奴隷制の廃止や死刑制度の事実上の廃止、ストライキの権利を認めること、計画的な慈善事業などを、世界の歴史でも最も早く説いて決めてきたそうである。
さらに、ユダヤ教においては、競争よりも協力が社会生活において価値を置かれるそうである。


ユダヤ教においては、完全な正義が実現した世の中を「神の国」というそうだが、「神の国」がなるべく早く実現するように努め手伝うことと、「神の国」が輝き渡るようにすることは、「神の国」を知った人間の義務となるそうである。
聖書を読んでいると、イエス・キリストが「神の国」についてしばしば言及するが、これはひょっとしたら、イエス・キリスト固有のものというより、ユダヤ教にはよく見られた発想方法だったのかもしれない。


この本の最後に、とても面白い中世の寓話が載っていて、最後の一枚の金貨が信仰だというとても信仰について考えさせられるエピソードがあった。
たしかにそうなのかもしれない。


日本人にとっては、ユダヤ教というのはなじみのうすい、とかく誤解もつきまとう宗教だが、私が知る限り、仏教とともに、実は最も合理的で普遍的な宗教のような気がする。
多くの人に読んで欲しい、素晴らしい一冊だった。