ヨブ記雑感

聖書の中のヨブ記は、なかなか難解な作品で、不条理な目に遭って苦しんだ義人・ヨブが、別に自分は悪いことはしていない、とはっきりと述べて、どうして自分が苦しむのかという問いを神に訴え、ラストの方では神が出現する。
そして、神は、別にヨブの問いに直接は答えず、一見的外れのような、ヨブは世界の創造がどのようであったか知っているのか、とか、海のレビヤタンをどうにかできるのか、などといったことを述べる。
そして、ヨブはその答えに納得する、という結末である。


今日読んだ、ユダヤ教のラビのクシュナーの本に、そのことについて言及されていて、とても興味深かった。


クシュナーが言うには、このヨブ記のラストの方については歴代のラビたちにもいろんな解釈があるとのことで、ヨブを黙らせるために神の圧倒的な威厳を示した、だとか、人ひとりの運命など広大な宇宙においては別に特に大したことではないということを示した、とかいろんな解釈があるそうである。


その中で、クシュナー自身は、ここは実は、神が何を語ったかということはヨブにとってはどうでもよくて、ヨブの名前を神が知っていて直接名前で呼びかけ、神と言葉を交わしたということ、神が自分に現れて言葉を交わしてくれたということ、それだけでヨブは十分で、それで満足した、という解釈を支持していた。


この解釈は、私にとっても、非常に興味深くて、なるほどと思った。
これでヨブ記のラストの方の謎が、やっと解けた気がする。


振り返ってみれば、自分もいささか似た体験がある。


私にとっては、自分なりの苦しみや悲しみの果てに、いろんな求道をしてきた中で、ダライラマに直接二回も私の問いに真摯に答えていただいたことや、デ長老やマ大長老が私の家にまで来てくださったこと、あるいは、菅さんが感謝のビデオレターを私とその仲間あてに送ってくださったことや、菅さんと直接握手してすぐ真横で一緒に写真をとってもらったこと、などなどが、自分にとってはとても良い思い出になっている。


もちろん、そこで言われた言葉もとても大切な言葉となって心に残っているが、言葉以上に、直接そのように顔と顔を合わせて言葉をかけてくれたということが、とても大切な体験になったと思う。


自分をヨブになぞらえるのはおこがましさの限りで、ヨブに比べればはるかに恵まれているだろうし、ヨブほどの義もなく欠陥も多い身だが、時折は自分なりにへこむこともあり、自分の人生はうまくいかないなぁとか、どうしてこのような悲しみや苦しみがあったのだろうと思うこともあるが、ヨブ的な観点から言えば、十分にヨブのように自分は恵まれているのかもしれない。


クシュナーがヤコブの事例を引いて述べるように、結局、人生において最も大切なことは、金や地位や立派な功績ということよりも、どれほど愛したか、愛されたか、ということなのだろう。
一銭の得にもならぬことはこの世の尺度から言えば得にはならないし、世に他に評価する人はいなくとも、自分は自分なりにそのつど最善を尽くし、そして世の人は認めなくても稀な人に認められたのであれば、それで十分ヨブのように満足できるのだと思う。