これはものすごく私の主観的な判断なので、全くもって客観的ではない意見に過ぎないのだけれど、私が思うに、世界の数ある宗教の中で、最もすごいのは初期仏教とユダヤ教だと思う。
そのうえで、浄土真宗とキリスト教が最も普遍的な救いをもたらしていると思う。
だが、間口の広い救いという点はともかくとして、叡智という点で言えば、初期仏教とユダヤ教に優るものはないのではないかと思う。
そのうえで、初期仏教とユダヤ教を比較するならば、どうだろう。
はかりしれない知恵や叡智という点では、どちらもすごいと思うが、これはあくまで私の主観的な評価に過ぎないのだけれど、初期仏教の主な担い手のシンハラ人やスリランカという国はあくまで幸せな人々であるのに対して、ユダヤ教とその担い手のユダヤ人はあまりにも不幸な民族であり、その違いが色濃くあって、その違いが良し悪しとは別にあるような気がする。
もちろん、スリランカも、近年は内戦があったし、かつては植民地だった時代もあり、いろんな試練や大変な思いもあったろうとは思う。
だが、これはあくまで私の直接知っている範囲の印象に過ぎないのだけれど、とてもスリランカのシンハラ人の人々は幸せそうな印象を受ける。
在家の人々は能天気で明るくさわやかだし、出家の人々は完成された幸福を穏やかに享受している。
植民地統治の時代というのも、どうも歴史の本などを読んでいると、そんなに過酷な印象は受けず、早い段階で自治や憲法をイギリス統治時代にも確立しているし、インドと違ってそれほど独立闘争に苦労することもなく、地元のエリートの人々とイギリスとの円満な話し合いですんなり独立したようである。
元々気候風土が温暖で豊かで、宝石もよくとれるし、地方では果物がマンゴーやバナナなど自然に育っていて、さほど豊かでない人も食べるには困らないそうである。
というわけで、スリランカというのはなんだかこの世の楽園か天国みたいなところで、そこで大事に維持されてきた初期仏教も、基本的に幸福な宗教なのではないかと思う。
一方、ユダヤ人というのは言うまでもなく歴史上最も過酷な目に遭い続けてきた民族であって、山のような不条理と悲惨に見舞われてきた。
つい最近やっと国家を持てたものの、それまではずっとディアスポラだった。
その点、ずっと自分の島に平和に住み続けてきた日本人やシンハラ人とは対照的である。
したがって、ユダヤ教には、いやおうなくその過酷な歴史が刻印されているし、よく言えばそのような体験から生まれたいかなる逆境でも生き抜く叡智がこめられているのだと思う。
どちらが良い悪いということではなく、そのようなものなのだと思う。
そして、これはあくまで単なる私の主観や好みに過ぎないのだけれど、私の場合は、初期仏教にまぶしさや憧れを感じつつも、ユダヤ教になんとも哀愁や深みや共感を感じる気がする。
語弊を恐れずに言えば、明け方も夕方もどちらも美しいが、また趣きが違うというものだろうか。
あるいは春と秋みたいなもんだろうか。
そして、これは私のあくまで主観に過ぎないのだけれど、旧約聖書やユダヤ教を踏まえた上でキリストを見るとそのすごさとすばらしさが本当にわかる気がするし、初期仏教を踏まえた上で念仏や浄土真宗を見るとそのすごさとすばらしさが本当にわかる気がするのだが、どうもその前提を除いて見ても、いまいち的外れになりやすいのではないかと思う。
また、知恵や叡智は、前者こそが糧となるのに対し、どちらもその後者は、前提が欠けた場合は何か気の抜けたものになりがちな気もする。
念仏やキリストはすごいが、では浄土真宗の僧俗やキリスト教徒に、どれだけ初期仏教やユダヤ教を凌駕する信仰や知恵の人がいるかというと、甚だ心もとない気がする。
もちろん、以上のことは、私の無知や、狭い範囲の知識ゆえの誤解かもしれない。
ただ、今のところは、上記のような印象を持っている。