洞察力と素直さ

箴言を読んでて、なるほどと思い、かつ深く考えさせられる一節があった。


A person is praised according to their prudence,
and one with a warped mind is despised.
(Proverbs 12.8)


人はその悟りにしたがって、ほめられ、
心のねじけた者は、卑しめられる。
箴言 第十二章 第八節 口語訳)


人は見識のゆえに賞賛される。
心がいじけている者は侮られる。
箴言 第十二章 第八節 新共同訳)


その人の洞察力に応じて、人は賞讃される。
しかし、心がひねくれた者は、軽蔑されることになる。
箴言 第十二章 第八節 自分訳)


レフィ・スィフロー・イェフラル・イッシュ・ヴェナアヴェー・レヴ・イヒイェー・ラヴーズ


人はその人の見識や洞察力によって評価されるし、心がひねくれた人は軽蔑される、ということだろう。


まず、なるほどと思ったのは、人が賞讃されるのは、地位でもなく権力でも業績でも見栄えでもなく、あくまで洞察力・見識によるとしているところである。


たしかに、そのとおりで、私たちは、本当はどんな場合でも誰に対しても、その人の知恵や力量や見識にこそ敬意を払っているのかもしれない。
地位や学歴があっても、その人に知恵や洞察力がなければ、人は敬意は払わないし、かえって落胆の対象になる。


通常、人が地位や学歴がある人に敬意や評価を払うのは、それなりの見識や洞察力があるはずであるという想定に基づくのだろう。


しかし、地位や学歴や肩書があっても、本当に知恵や洞察力があるとは限らない。

ある人もいれば、ない人もいる。
また、地位や学歴や肩書がなくても、本当の知恵や洞察力の持ち主もしばしばいる。


大事なことは、賞讃や評価は、その洞察力や見識に基づいてなさえるべきだということを自他ともに自覚することなのかもしれない。


次に、この箴言で考えさせられたのは、「心がひねくれた者は軽蔑される」ということである。


これはどういう意味だろう。
「心がひねくれた者」とは、具体的にどういうことだろう。


いろんな意味に受けとめることができるかもしれないが、その一つの意味としては、「ひねくれた心」というのは、素直に神の恵みを受け入れることができないことなのではないかと思う。
つまり、神から離れた者、神を疑うことを、「ひねくれた心」と形容しているのではないかと思う。


神という言葉を使わないのであれば、要は、この世界にたった一人しかいない自分の貴重な存在をあるがままに受け入れて愛し、他の人もまたそのように受け入れていくことができる人が、素直な心であり、それを拒む人が「ひねくれた心」ということになるのだと思う。


とかく人の世は、他人と自分を比較し、他人同士を比較して生きていきがちなものである。
比較や競争の中で、いつの間にか、人は自分自身や他人のかけがえのなさを忘れていく。


キリスト教においては、神においてあるがままに愛されていることに気づき、向き直って、神の愛に心を開け放つことが最も大切なのだろう。
そのような神と人との関係は、一人一人がそれぞれたった一人に対して神が向けている愛と関係に気付くことによってなされるのだと思う。


浄土真宗においても、「天下一品」つまりこの世界にただ一つしかいないのが自分や他人であり、そのような我一人を御目当てにして如来が働きかけてくださっている、願いがかけられている、ということがよく言われる。
「各各安立」、つまり一人一人をそれぞれに独自に安んじるのが如来の救いだとも言う。


何か絶対者や確実な実在のようなもの、大いなる愛や慈悲や願いの働きに触れた時に、人は比較相対ばかりの心を脱け出て、たった一人しかいない自らの個性や他の個性に目覚め、そのままに受け入れ愛し慈しみ心を持つことができるのかもしれない。


そのことを無量寿経では「当相敬愛」というし、聖書ではそれこそ無数の言葉で愛が説かれているのだと思う。


それを忘れてしまっているのが、世の人という者で、それが「ねじくれた心」「ひねくれた心」なのだと思う。
そして、大なり小なり、人はこの心を抱え、傷ついて生きているのだと思う。


自らの尊さを受け入れていない人は、他人から軽蔑されるというよりは、自分が自分を軽蔑してしまうのかもしれない。


箴言のこの言葉は、さらっと述べられているようで、本当に深い。
世の外見しか見ない目を戒め、本当にその人の見識や洞察力をこそ見ること。
そして、ねじくれた心を直し、素直に自他のかけがえのなさを愛し育む心を育てること。
かけがえのない各人にかけられている大きな願いに目覚めること。
そうした人生において最も大切なことを、さらっと教えてくれている箇所だと思う。