癒しの心と嫉妬の心

箴言を原文を参照にして読んでいて、はっとさせられるところがあった。


A heart at peace gives life to the body,
but envy rots the bones.
(Proverbs 14.30)


穏やかな心は肉体を生かし
激情は骨を腐らせる。
箴言 第十四章 第三十節 新共同訳)


癒しの心は、身体にとって命となる。
しかし、嫉妬の心は、骨にとって腐敗となる。
箴言 第十四章 第三十節 自分訳)


ハイェー・ヴェサリーム・レヴ・マルペー・ウレカヴ・アツァモット・キアヌー


「マルペー」は、「落ち着いた」あるいは「穏やかな」という意味にもとれて、それで新共同訳は書いてあるようだが、「癒し」「治癒」という意味がもともとはあり、聖書の他の箇所では主にその意味で使われている。


また、「激情」と訳されている「キヌアー」は、他の聖書の箇所では通常「嫉妬」と訳される言葉のようだ。


というわけで、上記のように訳してみた。


「癒しの心」とは何だろうか。


おそらく、自分自身が癒された心、という意味もあり、と同時に、他の人を癒す心でもあるのだと思う。


聖書や仏典に触れ、その教えを生きている人の言葉に触れる時に、人は癒される。
そして、癒された自分の心を、自分だけにとどめず、周囲や世界の癒しに努める時に、自分自身もさらに癒され、世界も癒されるのだと思う。


一方、嫉妬というのは、他人にとって何の癒しにもならない上に、自分にも害毒しか与えない、最も非生産的な情念なのだろう。


福沢諭吉も、『学問のすすめ』の中で、他の情念はそれなりに役に立つ場合もあるものの、怨望、つまり嫉妬だけは、全く何の役にも立たない自他の足を引っ張るだけの情念だと述べている。
高校の頃、『学問のすすめ』を読んで、そこは非常に印象深かったものだ。
福沢は、江戸時代の封建社会の、たとえば大奥の奥女中などは、嫉妬ばかりであり、いかにそれが人間性をゆがめるかをほとほと嘆いていたようで、嫉妬のないさわやかな社会を新たな明治の世には望んでいたようである。


しかしながら、人間というのは、ともすれば嫉妬に駆られがちなものなのだろう。
そして、それは自分が不幸な時や不平を抱えているほど、そうなりがちなのかもしれない。


恥かしいことではあるが、今朝、私は夢を見て、しばらく会っていない高校時代のある友人が結婚したという話を聴き、口で祝福しながらも心中はうらやましいなぁと嫉妬の念に駆られている夢を見た。
素直に友人の幸せをともに喜べばいいものを、なぜ自分だけは取り残されてかくも不幸なのかと(世の三十代男性のかなりの割合は実際は独身だというのに)、夢の中で考えていた。
煩悩具足の凡夫とはいえ、起きて恥ずかしい思いをさせられた。


たぶん、嫉妬をしないためには、自分自身が癒された心である必要があるのだろう。

それでこそ、他を癒すこともできる。
嫉妬が自らの骨、つまり根本を腐食させるほどの毒だということを認識することと同時に、まずは自他を癒すことをこそ心がけることも大事なのだろう。


自他を癒すためにはどうすればいいか。
その最も大切な道は、やはり自他を慈しむことなのだと思う。