箴言を読んでて、なるほどと思う箇所があった。
Be sure you know the condition of your flocks,
give careful attention to your herds;
(Proverbs 27.23)
あなたの羊の状態をよく知り、
あなたの群れに心をとめよ。
(箴言 第二十七章 第二十三節 自分訳)
あなたの羊の様子をよく知っておけ。
群れに心を向けよ。
(箴言 第二十七章 第二十三節 新共同訳)
あなたの羊の群れの状態をよく知りなさい。
あなたの心をその群れに置きなさい。
(箴言 第二十七章 第二十三節 自分訳)
ヤドア・テダー・ペネー・ツォネーハ・シット・リベハー・ラアダリーム
古代イスラエルは、羊を飼って生活する人が多かったのだろう。
したがって、この一節は、比喩というよりも、直接的な、生活に実際に基づいた言葉だったと思う。
そのうえで、後世の私たちは、これを比喩的にとらえることも可能だと思う。
一つ目の受けとめ方としては、この「羊」を、自分の仕事や仕事で関わる人、と受けとめることができるかもしれない。
それらによく心を向け、注意し、その状態を把握することは、誰にとってもとても大切だろう。
二つ目は、仕事に限定せず、責任を持っている人々、関わりのある人々など、すべてについて、その状態をよく把握することと受けとめられるかもしれない。
家族はその最たるものだし、家族ほどではないとしても、関わりのある人、地域の人など、その状態をよく知ることが大切な人も多々いるだろう。
こう受けとめて考えてみると、私たちは誰でも、孤立したばらばらの個人ではなく、それぞれにお互いを気づかい合うべき存在であり、それぞれお互いにお互いの「羊番」「番人」なのかもしれない。
別に、昔の五人組や隣組のように監視し合うということではなく、お互いに道からそれないように、困ったことがないように、気づかうという意味においてである。
また、三番目にもっと言えば、一つの社会や一つの国というのは、ある意味、自分が気遣うべき羊の群れなのかもしれない。
それはお互い様であり、自分もまた、その社会や国における羊の一人でもあり、リーダーを立てて従うべき局面もあるだろうし、またできる範囲で自分もまた、お互いが崖に落ちたりはぐれたりしないようにすべきなのだろう。
ただ、以上のことを考えた上で、このことを考えていると、私たちは皆羊のようなものであり、イエスこそが良き羊飼いであるという福音書の言葉を思い出す。
どの羊飼いについていくかというのは大切なことで、盗人などを羊飼いと勘違いしてついていったらとんでもないことになるのかもしれない。
したがって、人にとってまず大切なのは、道を指し示す正確な羊飼いをよく見失わないようにして従うことなのかもしれない。
私の場合は、それはイエス・キリストであり、仏陀釈尊なのだと思う。
と考えれば、この箴言は、羊が自らを含めた羊の群れの状態をよく知り、注意を払うという意味に受けとめることが良いような気がした。
人間というのは、羊番でもあるし、自身もまた羊であるという二重性に生きているものなのかもしれない。
どうも変な羊飼いがやってきて、ハーメルンの笛吹きのようにあらぬ方向に多くの羊を連れて崖っぷちまで誘導していくようなことがあれば、一応は警告を発した上で、少なくとも自分だけはそれについていかないという程度の分別は持つ羊でありたいと、この頃の日本の様子を見ていると思う。
いつの世も、世俗の指導者などは、だいたいろくでもない羊飼いであり、本当の羊飼いというのは今までの歴史の中で、そうそう多くはいない、本当の本物は一人か二人と思った方が良いのかもしれない。