昨日、ヨハネによる福音書を読み直していて、あらためてピラトの言葉について考えた。
イエスが逮捕され、尋問される時、ローマの総督・ピラトは、イエスが真理について述べるのに対し、以下のように言う。
ピラトは言った。「真理とは何か。」
(ヨハネによる福音書 第十八章第三十八節)
この言葉は、ピラトのイエスに対する懐疑的な態度、あるいは嘲笑の態度だとよく言われる。
遠藤周作も「イエスの生涯」の中でそう解釈していた。
たしかにそうかもしれない。
ただ、私がこの言葉を読んで思ったのは、ピラトのこの態度と対比されるものは何だったのか、ということである。
それは、「真理を生きる」という生き方や態度だと思う。
そして、それはイエスが身をもって示したものだったのだと思う。
「真理とは何か」というのは、真理を知的にとらえようということだと思う。
ピラトは、真理などしょせんはわからないものだと思っていたのかもしれないし、そうであればこそこの言葉を述べたのかもしれない。
しかし、この言葉自体は必ずしも間違っているものではない。
古代ギリシャやローマにおいて、源を辿ればソクラテスなどに行きつく態度だろう。
一方、イエスや、その後の初期キリスト教の人々は、あまり「真理とは何か」ということは考えなかったのではないかと思う。
むしろ、「真理とは実際に生きること」であり、実際に生きてみてこそはじめて身をもって知られることだと思っていたのではないかと思う。
「真理とは何か」と考え、探究していくことは、それはそれで大切なことだと思う。
ソクラテスやプラトンやアリストテレスは、身をもってその道を進んだ。
そこに人間の理性の光は現れるのだと思う。
しかし、それでは、そのように知性的に真理を探究した先に、何があるのだろう。
ソクラテスは、「真理とは何か」と探究し続けた先に、自由で闊達で、生死を超越した人生があることを、身をもって示した。
なので、「真理とは何か」と探究することが、別に頭でっかちになるだけで、人生に何も資することがないとは思わない。
だが、場合によっては、単なる知的遊戯に終わってしまうものもあるだろう。
ソクラテスはともかくとして、膨大な哲学者や哲学書が、それでは何か本当に人の魂をゆさぶるものになったか、あるいはそのような生き方をする人を育てたかというと、かなり疑問である。
それに対して、イエスの生涯は、別に「真理とは何か」と知的に探究するものでは全くなかったにもかかわらず、圧倒的な迫力で当時も、そしてその後の時代も、鳴り響き続けた。
それは、真理を実際に生きたからだと思う。
釈尊は、その点、真理とは何かを知的に探究し知的な言語で表現することと、実際に身をもって真理を生きることの両方を完璧に成し遂げた希有な人だったのかもしれない。
だが、その後の膨大な僧侶がいったいどれだけそのどちらかだけでも成し遂げることができたかはかなり疑問ではある。
特に日本の場合は、どちらも全然できていない場合が僧俗ともにほとんどだったのかもしれない。
特に問題なのは、実際に身をもって真理を生きるということが、ほとんどなかったということかもしれない。
おそらく、真理とは何かと探究することも、真理を身を以て生きることも、どちらも大切なのだろう。
しかし、もしどちらかを選ぶとするならば、後者の方が大事なのかもしれない。
ソクラテスも究極的には後者を大切にしたからこそ、単なる知的遊戯ではない感銘と迫力を後世に響かせ続けているのだと思う。
仮に前者だけで後者が伴わないならば、実に虚しいものである。
また、前者よりも後者があれば、それだけで限りない響きがそこにもたらされる。
ピラトとイエスの対話は、あれほど短い箇所なのに、そのことを無限に深く鋭く語っていると思う。