内村鑑三『世に勝つとは何ぞや』

内村鑑三の『世に勝つとは何ぞや』という文章に感動したので、タイピングしてみた。
現代語訳はWEB上にあったようだけど、原文は今までテキストではWEB上にはなかったようである。
多くの人にお勧めしたい素晴らしい内容の文章と思う。




内村鑑三『世に勝つとは何ぞや』
(一九一二年五月『聖書之研究』)


「なんじら世に在りて患難(なやみ)あらん。されど心安かれ。われすでに世に勝てり(ヨハネ伝十六・三十三)。」


世に勝つとは、権力をもって世を威圧することではない。また金銭をもってこれを買収することではない。また名望をもってこれを風靡することではない。ひろき、暖かき心を以てこれを容受することである。すなわち愛をもってこれに勝つことである。
世の我に加うる侮蔑、憎悪、迫害を怒らざるのみならず、かえってこれを喜ぶことである。すなわちわが心に怨恨の苦きは絶えて宥恕の甘きのみ存し、尽きざる愛の甘泉のその中より湧き出でて永生に至ることである。これがほんとうの勝利である。かくのごとくにして世に打ち勝ちて、世は再たびわれに勝つことができないのである。


身は十字架につけられ、戈(ほこ)もてあばらを刺され、目のあたり嘲弄をたくましゅうせられし時に、
「父よ彼らをゆるしたまえ。彼らはそのなすところを知らざるなり」(ルカ伝二十三・三十四)
との祈祷を口にしながら息絶えしイエスは、その時まさに人類のかしら、世界の王となりたまうたのである。この愛に勝つ力は全宇宙にない。悪魔はイエスを殺さんとしてついにイエスに殺されたのである。


しかしてイエスによりてわれらもまたこの勝利の冠をわれらの頭にいただくことができるのである。われらもまた心に怨恨の跡を絶ち、これを愛の泉となすことができるのである。この世は実に悪い世である。敵意、憎怨、ねたみをもって満ちあふれ、これを避けんと欲して避くることはできない。われらこの世に生れ来たりてこれに勝たざればその呑(の)むところとなる。あたかも毒蛇と巣を共にするがごときであって、われ彼に勝たずんば彼れわれを呑まんとする状態においてあるのである。
しかしてわれら彼の毒牙を避けんと欲して、よしあけぼののつばさを借りて地の極にまでいたるも、彼はわれらの迹を追うて世界いずれのところにいたるもわれらに平和を得させないのである。しかしてまたこの毒蛇たる、すさのおのみことが退治せしという八尾大蛇(やおおろち)とは異なり、いかなる利剣をもってしても斬り殺すことができないのである。この世の主なる悪蛇を除くにただ一つの武器、一つの方法があるのみである。
愛の武器、宥恕の道、これである。これをもってしてわれらは完全に彼に勝つことができるのである。愛はまことに悪の解毒剤である。その注射を受けて、われらは悪魔の毒矢を身に受けてその毒に感染しないのである。


愛に恐れなしというはこのことである。ひろき、暖かき愛を心にいだきて、われらは人の誹謗、侮蔑、嘲弄に会うて心を乱され、これをけがさるるの恐れがないのである。愛のよろいを身にまとうて、われらは悪しきこの世にありてどこにいたるも平安であり得るのである。われらはこの文明国にありて実はぬすびとの巣にあるのである。この世はいたる所、へびとさそりのすみかである。かかる世にありて、われら強き愛の注入を身に受けずして危険きわまるのである。われらはまずわが内に愛をもって世に勝ちて、しかして後に世はわが思うがままになるのである。
「イエスいいけるは、われいなずまのごとくサタンの天より落つるを見たり。われなんじらに、へび、さそりを踏みまた敵のすべての力を制(おさ)うる権威を授けたり。必ずなんじらをそこなうものなしと」(ルカ伝十・十八―十九節)
しかしてこの奇跡的の権威たるや、柔和なる心、ひろき、暖かき愛よりほかのものではないのである。