遠藤周作 「イエスの生涯」

イエスの生涯 (新潮文庫)

イエスの生涯 (新潮文庫)



この本、たしか十二、三年ぐらい前に古本屋で買った。


たしか、いっぺんさっと目を通したのだと思う。


当時は、「無力なイエス」というイエス像が、どうもあんまりしっくりこず、それほど感動はしなかった気がする。


ふと本棚から引っ張り出し、今度はきちんと丹念に読んでみた。


これはすばらしい名著だと思う。


深い感動を読みながら、そして読み終わって、感じざるを得なかった。


眼光紙背に徹すとはこのことかと思うほど、著者の遠藤周作福音書や当時の歴史書、および研究書をよく読みこんだ上で、独自の観点から見事に再構成している。


なるほど、こういうことだったのかと感心するところも多い。
若干、自分としては解釈が異なるところも細かなところでないわけではないけれど、それはそれとして、とても大きな刺激を受ける解釈や読みがあって、とても面白かった。


現実の効果とは別の、愛に生きたイエス
そして、その結果、「永遠の同伴者」になったこと。


この基本的なメッセージは、本当に深く魂に響くものがある。
強い説得力がある。


「復活」ということについても、あらためて考えさせられる。
もちろん、遠藤周作が非常に慎重に述べているように、何か想像を絶した体験が弟子たちにはあったのかもしれないし、あんまり合理的に解釈すると、それはそれで事の重要性やインパクトを見失うのかもしれない。
しかし、「復活」ということの意味の一つは、遠藤周作も復活に関連して述べていることの一つにあるように、その人の面影が自分の胸によみがえってきて仕方がなく、どうしようもなくその人の面影や思い出が自分の胸によみがえり、常に共に生きていくような感覚になることなのだろう。


そして、そのように受けとめ、思う人がいる限り、その人は死なないのだと思う。


エスがその心に横切った時に、どうしてもその後忘れることができなかった人々が、福音書を書き残したのだろう。
そして、その後、ずっと歴史の中で、イエスの姿や言葉が、多くの人々の心に鳴り響いてきた。


「神は死んだ」とニーチェは言った。
ニーチェ自身にはいろんな思いがあったし、それなりの理由があったのだろうけれど、ニーチェそのものの背景はひとまず置くとして、通俗的な意味でこの言葉をもし受けとめるならば、やはり「復活」に比べてあまりにも浅薄な言葉だと思う。
誰かの心にその生き方がよみがえっている間は、決して人も神も仏も死んだことにはならない。


この本を読んで、深い感動を覚えざるを得なかった私の心にも、ある意味、イエスの生涯が、そして著者の遠藤周作さんが、その時はよみがえったと言えるのかもしれない。


そんなことを考えさせられる、すばらしい名著だった。