遠藤周作 「キリストの誕生」

キリストの誕生 (新潮文庫)

キリストの誕生 (新潮文庫)


この本、実は、十二、三年前、同じく遠藤周作の『イエスの生涯』とともに古本屋で買った。
しかし、そのまま長いこと本棚に眠っていて、ついこの前、『イエスの生涯』を読み、とても感動し、それでこの本も読みだした。


しかし、なかなか遅々として進まず、真ん中らへんまでは、なかなかあまり面白さを感じなかったのだが、真ん中らへんから俄然面白くなり、ラストの方はただただ感嘆の、本当に遠藤周作の入魂の書だった。


特に感銘を受けたのは、以下の三つのことである。


1、ステファノの殉教に関するペテロらの行動と心理の分析。
2、なぜペテロやパウロの殉教の様子を知っていたはずのルカがそれについて一行も書かなかったか。
3、ユダヤ戦争によるエルサレム破壊の後の、本当の意味の「キリストの誕生」の意味。


これらは、本当に深く深く心に響き、印象的だった。


使徒行伝の中のステファノの殉教に関し、遠藤周作は緻密に前後の文章を分析し、ペテロやヤコブらの他の主要な教会を率いていた弟子たちは、結局何もしていなかったこと、つまり、イエスが十字架に架けられた時に逃げ出して、臆病で卑怯だったペテロたちは、イエスの十字架の二年後において、ステファノの殉教に関して、また同じように臆病で卑怯に見て見ぬふりをしたことを指摘している。


これは今まで全然考えたことがなかったので、とても印象的だった。
通常、私たちは、イエスが十字架の死を遂げた後、その時は逃げ出したペテロたちが、不思議なほど強くなり、殉教も恐れず、イエス・キリストの福音を人々に伝えるようになったと考えがちだ。
実際に、そういう面もあったのだろう。
しかし、二年経った時に起こったステファノの殉教事件の時に、またペテロやヤコブたちは、同じことをせざるを得ない状況に追い込まれ、またそのように振る舞った。


そして、そのあと、このステファノの死の後に、本当の意味で、ペテロたちは強くなり、異邦人にもキリストの福音を伝えていくようになる。


人は一挙には変わらず、凡夫はどこまでも臆病で悲しい存在だということと、にもかかわらず、いくつかの出来事を経て、人は本当に変わっていくということを、とても考えさせられた。


それから、ペテロ、さらにはパウロは、熱烈にキリストの福音を伝道していくことになるが、イエスの十字架から四十年ぐらい経ったときに、ローマでペテロもパウロも皇帝ネロのキリスト教弾圧により殉教した。
しかし、その様子を知っていたはずのルカは、その様子を聖書に全然書き記していない。


遠藤周作は、その理由を推測し、おそらく、あまりにも悲惨な死だったために、書かなかったのではなく、書けなかったのだろう、と記していて、とても印象的だった。


ペテロやパウロのような立派な人たちが、なぜ理不尽な不条理な酷い死に方をしなければならなかったのか。
その神の沈黙の前に、ルカたちは、語る言葉を持たず、何も書けなかった、書こうにもあまりにも悲し過ぎて書けなかったのだろう。
その遠藤周作の推測は、おそらく全くそのとおりで、正鵠を射ていると心の底から思えた。


さらに、その後、ユダヤ人はローマ帝国に反乱を起こし、ユダヤ戦争が勃発し、ローマ帝国の軍勢の前に完全に滅ぼされることになる。
この時も、神はエルサレムの破壊に何も介入せず、沈黙を保ったままだった。


エスの十字架の死と、ステファノやペテロやパウロらの殉教と、イスラエルの滅亡と。
これら三つの、あまりにも悲しく不条理な出来事とそれに対する神の沈黙。


しかし、それゆえにこそ、キリスト教は滅びず、このことへの問いもひっくるめて、不思議と生き残り、その後広まり続け、ついにはローマ帝国をひっくり返すまでに広がっていくことになる。


遠藤周作は、ユダヤ教の風土では、通常、人を神と崇めることは決してありえないし、他にも多くの殺された立派な預言者やラビもいたのに、それらの誰も神として信仰されることはなかったのに、イエス・キリストだけは、十字架の出来事の後の十数年後には、メシアでありキリストであり神の子であり、主であるという信仰が広まっていったことに注意を促す。
つまり、そうとしか思えない何かが、イエスにあり、イエスと出会った人に忘れがたい印象をそれらの人に刻印していったからではないか、と述べているが、確かにそのとおりだったのだろうと思う。


この本を読み終わった後の深い感動は、うまく言葉では言い表せない。
多くの人に、『イエスの生涯』と併せて読んで欲しいと思う一冊である。
また、この本の最後の方で資料として使われている『ユダヤ戦記』も全部必ず読もうと思った。