太宰治 「人間失格」

人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))

人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))


タイトルはもちろん以前から知っていたのだが、どうも読む気がせず、今まで読んだことがなかった。
なぜ読んだことがなかったかというと、基本的に自分は根がネガティブで暗いと思うので、明るい人が読むならともかく、自分が読んだらど壺にはまるのではないかと心配していたからである。


しかし、読後感は意外とそんなことはなく、この小説の道化のような主人公には、おかしいような哀れなような気がしつつも、この主人公に比べれば自分はまだしもましだろうかとも思うし、あるいはよくわかるような、不思議と気がラクになるような明るくなるような気がした。


おそらく、この小説を読んだ人は、以下の三つの感想に分かれるのではないかと思う。


1、いわゆる桜桃忌に太宰の墓に集まってくるような、ものすごく共感して、自分にしかわからないと思う人。
2、自分はダメな人間だと思っていたが、この主人公に比べればマシだとほっとすること。
3、主人公の駄目さ加減にただただ嫌悪感を持つこと。


私は、このうち、ほとんど2で、微弱ながら1がある程度だろうか。
私の知人は3のタイプが多そうな気がする。


ただ、この主人公が思うところの、世間から自分はずれていて、世間ではなんでもないことが、自分にはどうにもよくわからない、という感覚は、なんだか私も多少わかる気がした。
どうも世間がしっくりこず、世間における必要なことや、しっかりちゃっかり世間がやっていることが、どうもピンとこないという感覚自体は、非常によくわかる気がした。
もっとも、このような世間とのズレは、大なり小なり、世の中のかなりの割合の人が感じることかもしれない。


さらに、主人公が、物語の半ば過ぎぐらいの時に、「世間は個人」だと気付き、個人とのその場の勝負があるだけで、世間なんてものは存在せず、本当にあるのは個人だけなのだと考えると気が楽になった、というところは、これまた私も良くわかるような気がした。
本当にそうなのかどうか、この作品も、結局、世間はなかったのか、個人だけだったのかは、なんとも最後まで読むと微妙なところがあるが、世間は個人と考えて生きた方が、実体のない世間というものに振り回されずに済むのかもしれない。


だが、結局、この主人公は、好き勝手に生きているように思える生き方をしながら、なんとなく世間というものの重圧に苦しみもがき、最後はつぶれてしまったように思える。
その哀れさや弱さも、よくわかる気がする。


人間というのは、なかなか思うようには生きれず、自分でも思ってもみなかったような方向に流れてしまうことも、場合によってはあるのだろう。


それにしても、この主人公は、金持ちの家に生れ、女性にもモテて、自分はさんざん苦しんでいるのかもしれないが、傍から見ればかなり恵まれているんじゃないかと思える。
私からすれば、世にそんなに優しくしてくれる女性などいないと読みながら文句を言いたくもなるが、こうも主人公が不幸なのを見ていると、モテても不幸ならばどうしようもないのかもなぁとも思った。


それに、主人公はあまりも友人が悪すぎるだろう。
それが不幸な気もする。


お金もこの主人公のようにないし、この主人公のように女性が優しくしてくれることもないが、自分には良い友人がいることは、実は恵まれたことなのかもなぁと思った。


結局、人間というのは、いろんな縁や流れ次第なのかもしれない。
主人公は本当にどうしようもない人間だが、若干はこういう気持ちもわかるような気もする。
自分もそのような縁や流れに今の所なってないだけなのかもしれない。


今度は井上ひさしの『人間合格』でもそのうち読んでみようかと思う。


(追記)


この前、太宰治の『人間失格』を読んで、自分はこれほど恵まれてもいなければ、これほどダメでもない、ということをその時は思って、一応そんな感想を書いてみたのだが、数日たって、考えが変わってきた。

自分も、形を変えて、同様にだめなんじゃなかろうかと。

つまり、どうしようもない存在であるという点で、同じではないかと思えてきた。

幸か不幸か、私は『人間失格』の主人公ほどは、遊蕩するお金もなければ、女性のヒモにならせてもらえるほど女性に優しくされたこともない。

だが、それは条件が違うというだけで、根底にあるだめさかげんは、非常によくわかる気がしてきた。

何がだめなのかというと、何分、すべて無力なような気がする。
世間からずれていて、ちぐはぐで、すべて末徹らない気がする。
何をやっても無駄で、意志も努力も足りない気がする。

そのうえ、どうも私は言いすぎるくせがあり、リアルでもしばしば相手と激論になることがあるが、ネット上でも随分多くの人の心を切り刻んできてしまったのかもしれない。

などとつらつら考える。
ああ、いかん、どうも太宰モードに引き込まれてしまったようである。

ただ、自分のだめさかげんを知るというのは、必ずしも悪いことではないのかもしれない。

その先が、大事なのかもしれないけれど。

もし、『人間失格』が作品上、どうしても欠点があると思われるところがあるとすれば、あの先の救いがないところだと思う。

浄土真宗の用語でいえば、機の深信のようなものはあっても、法の深信がない。
パウロっぽい用語でいえば、律法や肉への絶望があっても、そこから新生がない。

その点が、どうしようもなく、太宰は、ある意味、現代の人間であり、非西欧的であり、日本的であるのかもしれない。

遠藤周作の作品だと、どうしようもない人間が、転じられていくところがあるのが救いだと思う。

ただ、ここまで正直な、深い、自分のだめさかげんの認識や赤裸々な告白は、これはこれで、あくまで中途の段階だと弁えれば、貴重なものなのかもしれない。