手塚治虫 「アドルフに告ぐ」

アドルフに告ぐ (第4巻)

アドルフに告ぐ (第4巻)


手塚治虫の『アドルフに告ぐ』を、二十数年ぶりに読んだ。


手塚治虫は、この作品で、第二次大戦頃の日本やドイツを覆っていた狂気や野蛮さを真っ向から描いている。
それはあの時代を生きた人間として、あの時代の空気がどういうものだったのか、どのような問題があり、人間とは本来どのようであるべきかを、後世に伝えたいという強い思いがあったため、必死にこれほどの大作を書き上げたのだろう。
漫画の神様とはよく言われるが、まさに神としか思えない、見事な作品だった。
手塚治虫は日本のシェイクスピアだと本当思う。
この作品は、後世の多くの人に、きちんと受け止められ、しっかり読まれるべき、多くの貴重なメッセージを含んだ名作だと本当に思う。


この漫画は、私は、小学校の高学年の頃、愛蔵版の全四冊を買って読んだことが一度あった。
しかし、当時は何分まだ十分な理解力もなかったし、何せ暗い印象と恐ろしい時代だという印象ばかりが残っていた。


今回、本棚から引っ張り出して読み返してみた。
今読み直すと、以下の三つの点で、大きく昔読んだ時と印象が異なっていた。


一つ目は、以前読んだ時は、暗く恐ろしい印象しかあまりなく、主人公たちは無力で時代に翻弄されているイメージが強かった。
しかし、今回読み返すと、決してそうではなく、主人公たちはしっかりと自分を持って時代に対抗しているという印象を受けた。
主人公の峠草平や、由季江や小城先生たちは、皆、しっかりと自分を持ち、空疎なイデオロギーではなく、具体的な人間としての愛情や正義感を持ち続けている。
時代に迎合することもなく、自分たちの生き方を貫いている。
そのことに深い感銘を受けた。
それは、ゾルゲ事件連座して死ぬことになった、本多芳男少年も同じだったと思う。
彼らは、別に共産主義などのイデオロギーによって、ファシズムや戦争に反対したのではなく、むしろもっと具体的な人間への愛情や正義感からだったのだと思う。
今回読んでいてそのことが新鮮だったし、実はそういうものこそが本当は一番大切なものだと思った。


二つ目は、以前読んだ時は、主人公の一人であるアドルフ・カウフマンは、ひたすら嫌な悪役という印象しかあまりなかった。
しかし、今回読んでみると、とても哀れな気がした。
実際、カウフマンは後からは冷酷なナチスの将校になるが、小さい時は普通の心優しい少年だったことも描かれている。
ナチスの幹部養成学校に行くことも最初は嫌がっていたし、折々にいろんな悩みや葛藤を抱えていた。
今回読んでて、そのことがとても新鮮だった。
とはいえ、カウフマンは、さまざまな悪を働き、苦しみながらも結局あまり悔い改めることもなかった。
そこが、二重三重に哀れと言えるのかもしれない。
その時代における教育の恐ろしさというものを、カウフマンの生い立ちを見ているとあらためて考えさせられる。
もっとまともな時代のまともな教育の中で育てられれば、ずっと普通の心優しいままの好青年に育っていただろう。
ナチスの時代はなんという狂気と野蛮さとゆがみに満ちていたことだろうかとあらためて思う。
それは、カウフマンのみならず、本多少年の父親の本多大佐にもあてはまることだと思う。
加害者となった人々の多くもまた、ある意味、時代の産物という意味で哀れな存在だったのだと思う。
だからこそ、一国の教育や雰囲気というものは、あだおろそかにできない、非常に重要なものだということを今回あらためて考えさせられた。
また、無批判に時代の空気や教育に染まってしまってはならず、自分自身がしっかり考えて生きることが大切なのだろう。


三つ目は、これはたぶん、手塚治虫が言いたかったことなのだろうけれど、「正義」というものの空疎さで、前読んだ時は、漠然とそのことは感じながらも、あんまりはっきりとはそのことがわからなかったが、今回はとても共感しつつ読んだ。
時代によって正義などというものは変わるし、その正義というものによって人を傷つけたり殺しても、なんら良いものはなく、むしろ苦しみのみが増えていく。
結局、本当に残るのは、空疎な正義ではなく、具体的な人間と人間との愛情である。
それが、この作品のメッセージのひとつなのだと思う。
しかし、往々にして、なんと人は具体的な人間同士の愛情やつながりを見失い、空疎な正義にとりつかれ、そのあげくに具体的な人間同士の愛情やつながりを破壊したり損なってしまうことだろうか。
手塚治虫は、この作品で、民族や人種などというのも、この空疎な正義の最たるもののひとつだということを描いているのだと思う。
カウフマンがその空疎な正義に取り込まれて、周囲も不幸にし、本人自身も不幸になっていったのと異なり、カミルはユダヤ人であったからこそ、比較的そうした空疎な正義から自由だったように読んでて思えた。
しかし、イスラエル国家ができた後のカミルがどうだったのか。
あまり詳しいことはわからないのだが、気になるところではある。


他にも、いくつか読み直していて、そうだったんだとあらためて思うところがいろいろあった。
私は記憶の中では、小城先生は拷問か空襲で死んだようなイメージがあったのだが、ちゃんと生き残っていたことが印象的だった。
また、ゾルゲ事件ワルキューレ作戦など、歴史上のエピソードを本当に巧みにとりこんであるし、昔読んだ時はあんまり記憶になかったのだけれど、アイヒマン土肥原賢二などが登場していたことにちょっと驚いた。


どの時代においても、人にはさまざまな生き方があるが、人間として大切なことを忘れずに自分の生き方をしっかり貫いて生きるか、あるいは時代の空疎な正義に取り込まれてしまうか。
それは結局は、本人自身の選択によるのかもしれない。


小さい頃読んだ時は、主人公の峠草平は随分年上に感じたが、なんと、一巻の頃は今の私よりかなり若く、四巻の頃でも同い年ぐらいということになるようである。
峠草平ぐらい、かっこよく逞しく生きたいものだと、今回読み直してあらためて思った。


またしばらくしてから、折々に、読み直したい名作だと思う。