自分の量る秤で量り与えられるということ

マルコによる福音書を読み直していて、いまいち意味がわからない箇所があった。


‘Consider carefully what you hear,’ he continued. ‘With the measure you use, it will be measured to you – and even more.’
Mark 4:24


また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。」
マルコによる福音書 / 4章 24節


似たような言葉がマタイ伝の山上の垂訓にもあるが、ここは文脈や意味がだいぶ違うようである。


わからんのでいろいろとネットで調べていたら、世の中さすがな人が多々いるもので、以下のような意味だと書かれてあって、なるほどと思った。


つまり、ここの「量る」というのは、神の言葉(イエスの言葉)を各人がどう受けとめるか、ということを意味しているという。


つまり、素直に聞き入れる人もいれば、せっかく聞いてもろくに聞かなかったり、自分の了見で狭くとってしまう人もいる。


その言葉を大きく、強く受けとめた人は、たくさん与えられる。
一方、小さく、狭くしか受け取らなかったり、拒絶する人は、せっかく与えられた言葉も失われ、取り上げられる、ということらしい。


なるほど、と思う。


これは、キリスト教に限らず、仏教にも言えることだと思う。


たとえば、同じく「南無阿弥陀仏」という名号を聞いても、そこにこの上ない喜びや慚愧をもって素直に受けとめる人もいれば、意味のない葬式の呪文だと拒絶する人もいる。
結局、人は「自分の量る秤で量り与えられ」るのだろう。


にしても、この短い言葉で、これほどの内容を集中的に言いあらわすとは、イエスはやはり宗教的な天才だと思う。
もちろん、キリスト教の信仰からすれば神なのだから当たり前なのかもしれないが、仮に他の宗教の立場の人から見ても、唯一の救い主かどうかはカッコに入れるとしても、この言葉は宗教的な天才としか言いようのない言葉だと思う。


なんらかの古典の言葉に触れた時、あるいは古典のみならずあらゆる言葉や演説もそうかもしれないが、そこから何を汲み取ることができるかは、結局受け手の側の「量る秤」なのだと思う。