メモ帳

【「原発事故、政治が責任を」 菅元首相インタビュー】(河北新報3月8日付記事)
http://blogs.yahoo.co.jp/macaron_kuripon/14860723.html とても興味深い内容だった。



「仏の説きたまへるところのごとく、阿弥陀仏の功徳利益を願じて、もしよく十念相続して、不断に仏を念ずるものは、すなはち往生することを得。
まさにいかんが念ずべし。

仏ののたまはく、

〈おほよそ十の念あり。 なんらをか十となす。

一には、もろもろの衆生において、つねに慈心を生じてその行を毀らざること、もしその行を毀ればつひに往生せず。
二には、もろもろの衆生において、つねに悲心を起して残害の意を除くこと、
三には、護法心を発して身命を惜しまざること、一切の法において誹謗をなさざること、
四には、忍辱のなかにおいて決定心を生ずること、
五には、深心清浄にして利養に染せざること、
六には、一切智の心を発して日々につねに念じて、廃忘あることなきこと、
七には、もろもろの衆生において、尊重の心を起し、我慢の心を除き、謙下して言説すること、
八には、世の談話において味着をなさざること、
九には、覚意に近づき、深く種々の善根の因縁を起し、憒鬧・散乱の心を遠離すること、
十には、正念にして仏を観じて諸想を除去することなり〉」と。

(往生要集)



「歴史とはいつ、どこでなにがおこったかを説明するだけのものではありません。
そこには歴史に翻弄され、わたしたちがぼんやりとしか知らない過酷な運命を生きざるをえなかった人々の心の軌跡もまた含まれるべきでしょう。
わたしにとってこの本は、みずからの物語を語りえなかった人々の無念を晴らそうとする、もう一つのこころみなのです。」
(ジュリアス・レスター)



19世紀初頭、インディアンのリーダーのテクムセは、米英戦争でイギリスと組んで、合衆国を倒す寸前までいった。おそらく、インディアンで合衆国を倒せたかもしれなかったのは、テクムセだけだったろう。非常に勇敢で、演説がとてつもなく上手だったそうである。

テクムセは戦場で非業の死を遂げたのだけれど、そのあと、「テクムセの呪い」という現象がつい最近までずっと合衆国大統領を悩ませてきたらしい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%91%AA%E3%81%84 20年おきに大統領が必ず死ぬというものだが、たしかにやたらと二十年おきに暗殺や急病死が多い。

偶然かもしれないが、本当かもしれないという迫力がある。レーガン以降なくなったのは、おそらくネイティブ・アメリカンに対する政策がだいぶ改まり、テクムセの怒りが解けたからではないかという気もする。





世の中には、たぶん、二種類の人がいるのだろう。文句ばかり言って何もかも否定する人。文句を言うより具体的に動き、何かひとつでも良いことがあれば、それを建設的に伸ばそうとする人。前者はこの世にとって単なる有害無益な存在であり、後者こそがこの世を良くする存在である。



絶望することに絶望したところから、感謝の人生は始まる。



それにしても、リンカーンフレデリック・ダグラスや、ソジャーナ・トゥルースやハリエッド・タブマンや、テクムセといった人々を思うと、不思議と全身に勇気や力が満ちてくる気がする。不思議なもんだが、これが浩然の気というものだろうか。



「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」(マルコによる福音書 第八章第十八節) 三一一の後、原発推進自民党政権を復帰させ、特に疑問もなく支持する多数者を見てると、この言葉が思われてならない。



「(菩薩の生き方は)また小鳥のようである。決して余分にはたくわえないから。(略)また獅子の王のようである。何ものをも恐れることがないから。その慈悲の広いことは大空のようである。すべての人々を平等に慈しむから。」(無量寿経) 無量寿経のこの箇所は、本当に美しく、すばらしいと思う。



どのような文章も、思想も、血肉化するかどうかが一番大切なのだろう。
広瀬淡窓は膨大な漢籍を「敬天」の一句にまとめて、それを自らの血肉をもって生きたからこそ、多くの人に感銘を与えたのだと思う。
法然親鸞浄土三部経を血肉化していたから偉大だったのだろう。
多くを学ぶよりも、何かひとつの古典を徹底して血肉化することが大切なのだろう。
どうも自分は万事浅く、中途半端でいけない。
まずは、どれか一つでもいいから、徹底して読みぬこう。



箴言の面白いところは、アグルとレムエルという、おそらくはイスラエル人ではなかった、別の国の人々の言葉を収録しているところである。また、古代エジプトの「アメンエムオトの教訓」がかなり箴言には取り入れられている。意外と多民族に寛容なところが面白い。



「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。」
ヤコブ書 1章22~26節)


「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」
(コリント2 3章18節)



「人生が生きるに値するのは、その人が正直に生き、理想をもっているときだ。
そして自分にだけでなく「全人類」に役立つ大きな志をもっているときだ。 」
(『イタリア抵抗運動の遺書』より) たまたまネット上でこの言葉を読んで、深い感銘を受けた。