「独立自尊」の意味のひとつは、自分を尊び、世間の価値基準に埋没せず、自分自身の価値判断を確立し、世間の文化とは違う文化を自分自身で築いていくこと、そういう意味だと思う。
これは今もって、いや、明治の時以上に、今こそ重要なテーマだと思う。
現代の情報の氾濫の中では、実に難しい。
世間の価値基準というのは、大体デタラメなもので、本当の価値にはならぬものだ。
それは自分の死を直視すれば、おのずとわかることである。
金やモノの多くは、死後は持って行けない、どうでもいいことばかりだ。
ただし、世間はたえずさまざまな情報で洗脳をしてくる。独立自尊は至難の技だ。
自分を本当の意味で尊ぶことができた人こそ、他人を本当の意味で尊ぶことができる。
それぞれにこの世にかけがえのない個性の持ち主である。
世間の画一的基準によってそれを忘れることほど馬鹿げたことはない。
福沢は儒教を主に批判したが、当時における世間の画一的基準という意味でだろう。
世間がどう言おうがこう言おうが、自分は自分の価値観を貫いて自分の人生を尊び生きる。
根拠にもとづいて自分の頭で考え、正しいと判断したことは千万人といえども我往かん。
そういうことが、独立自尊ということだろう。
しかるに、日本においては、学校教育でも、世間のありようでも、マスコミでも、独立自尊を育むどころか、画一化や順応化こそ行われている。
個性を尊重するということは戦後よく言われるようになったが、たいていはただわがままを野放しにする意味でのみ使われて、自分自身の考えを根拠に基づいてしっかりと育み、それによって生きて行動するということがはたしてどれだけ大切にされているかというと、はなはだ心もとない。
かくいう私自身、偉そうに言うどころではなくて、独立自尊からともすれば程遠いほど、気づかぬうちに世間の価値観に流されて、はっとそのことにあとで気付くことが多い。
かけがえのない自他の個性を尊重することより、無難に生き、金を稼ぐことこそ大事で、その前に偉そうなことは言っても仕方がないという世間の価値観のプレッシャーに気付かぬうちに埋没している。
おそらく、独立自尊というのは、百年以上前の古びた格言ではなく、極めて今日的な問題ということなのだと思う。