マキャヴェリ「君主論」を読んで

新訳 君主論 (中公文庫BIBLIO)

新訳 君主論 (中公文庫BIBLIO)


久しぶりに、マキャヴェリの「君主論」を通して読み直してみた。


通して再読するのはやや久しぶりだったが、ぱらぱらとはわりとしょっちゅう読み直してはいる。


ただ、今回あらためて読んでいて印象的だったのは、マキャヴェリが、マルクス・アウレリウスとセプティミウス・セウェルスという二人の対照的なローマ皇帝の資質を、二つとも併せ持つことを勧めているということだった。
かつてはあまり意識せずに読み流していたところだったので、あらためて印象深かった。
マルクス・アウレリウスとセウェルスについて、あらためて調べ直してみようと思う。


また、チェーザレ・ボルジアに対するマキャヴェリの深い愛惜や哀悼が、あらためて気づかされた。
最近、漫画の「チェーザレ」を読んだせいではあるのだけれど、以前より、チェーザレ・ボルジアへの興味が強くなったせいか、君主論で論じられるチェーザレ・ボルジアについての記述も非常に興味深かった。
特に、「君主論」のラストの章で、チェーザレについて、かつてイタリアに差した「一条の光」だったとマキャヴェリが述べているところを、以前は読み飛ばしていたので、深く胸を揺さぶられた。
君主論」は、見ようによっては、マキャヴェリチェーザレの「一条の光」を無にしないため、忘却に任せないため、永遠に記憶にとどめ、生かすために書いたオマージュだったのかもしれない。


世の中に、マルクス・アウレリウスとセウェルスの二人の資質を兼ね備えた人などいるのかと疑問にもなるけれど、ひょっとしたらチェーザレ・ボルジアはそうだったのかもしれない。


また、これは毎回マキャヴェリの「君主論」を読む時に感動させられる箇所で、何度となく今までにも読み返し、そのつど胸を打たれる箇所だけれど、私はやっぱり「君主論」の中で一番好きなのは、以下の第二十五章の文章だ。




もともとこの世のことは、運命と神の支配にまかされているのであって、たとえ人間がどんなに思慮を働かせても、この世の進路をなおすことはできない。いや、対策さえも立てようがない。と、こんなことを、昔も今も、多くの人が考えてきたので、わたしもそれを知らないわけではない。この見方によると、なにごとにつけて、汗水たらして苦労するほどのことはなく、宿命(さだめ)のままに、身をまかすのがよいことになる。
 とりわけ現代は、人間の思惑のまったくはずれる世相の激変を、日夜、見せつけられているから、この見解はいっそう受け入れやすい。そして、激動に思いをいたせば、ときには、わたしも彼らの意見にかなり傾く。
 しかしながら、われわれ人間の自由意思は奪われてはならないもので、かりに運命が人間活動の半分を、思いのままに裁定しえたとしても、少なくともあとの半分か、半分近くは、運命がわれわれの支配にまかせてくれているとみるのが本当だと、私は考えている。 
運命の女神を、ひとつの破壊的な河川にたとえてみよう。川は怒り出すと、岸辺に氾濫し、樹木や建物をなぎ倒し、こちらの土を掘り返して、向こう側におく。だれもが奔流を見て逃げまどい、みなが抵抗のすべもなく、猛威に屈してしまう。河川とはこうした性質のものだが、それでも、平穏なときに、あらかじめ堰や堤防を築いて、備えておくことはできる。やがて増水しても、こんどは運河を通して流すようにする、いいかえれば激流のわがままかってをなだめて、被害を少なくすることができないわけではない。
 同じことは運命についてもいえる。運命は、まだ抵抗力がついていないところで、猛威をふるうもので、堤防や堰ができていない、阻止されないと見るところに、その矛先を向けてくる。
 こんにち、イタリアは世情の激変の拠点、ないし震源地であるが、このイタリアをあなたがたがよく観察すれば、ここは堤防もなければ堰もない野辺でしかないのに気づくだろう。つまり、イタリアに、ドイツやスペインやフランスのような、適切な力の備えがあったとしたら、この激流も、いま見るような大きな激変を引き起こしはしなかったろう。あるいは、そんな洪水にあわずにすんだかもしれない。


(引用以上)



これほどに胸を打つ、人間の尊厳と現実への闘いと責任感とを学ばされる文章も、めったにないと思う。


いろんな細部に、読むたびにはっとさせられるところがある、本当に名著と思う。
民主主義国家においては、有権者は皆それなりに本当は主権者としての力量や構えが要求されるのであれば、やはり「君主論」は全国民必読の書なのだと思う。